杉田水脈議員の「生産性」発言を聞くたび思うこと

杉田議員に限らず、LGBTなどセクシャルマイノリティに関する否定的な意見の根拠として大抵、生物学的な子孫を残さないからというものがある。

生物学的な子孫を残さない、ということは「生産性がない」ということなんだろうか。
もしそうなら、それは「精子と卵子が受精しました。人間一丁あがり」と言っているのと同じじゃないか、という疑念を抱くのは、私だけだろうか。
人間は受精して完了じゃない。
生まれてくるまでには、妊娠を維持する母親の存在やその安全を守るパートナーや医療従事者、社会インフラ等々が必要で、それを支える人達が更に必要で……と考えたら要するに全員である。全員が、直接的・間接的に人ひとりの誕生とその先の生存に関わる。
禅の思想で「人は網の目のようなもの」、ひとつの結び目がほどけたらそこからどんどん綻びてしまう、というものがあったけど、私も社会ってそういうものだと思う。

余談かもしれないが、生物学的な子孫を残さないと少子化が進む、ひいては国が滅ぶっていう議論が展開されるのをたまに見かける。生物学的子孫を残さないことをデメリットとして着目、強調しているという点で類似しているのでここで触れておきたい。
生物学的遺伝子に関連する概念として社会的遺伝子(ミーム)というものがあって、そこには習慣、技能、物語などの文化的・社会的情報が含まれる。それは生物学的遺伝子と同じように人から人へ引き継がれ、進化していく。
つまり私のいった言葉や思想、作品、そういったもの全ては社会的遺伝子(ミーム)として社会に影響し、私が死んだ後も何らかの形で、変化しながら生き続けていく。
マクロな視点で見たら、人ひとりの存在は人口:1だ。
でもその1は、生物学的遺伝子のみによって成立しているものではないと思う。
生きていく上で悩みは尽きないものだし、文学や音楽、芸術作品がその人を生かしていくこともある。作品という形を取っていなくても、何気ない優しい言葉が人を救うこともある。
食事や清潔な水、文化的活動、医療、挙げればきりがないけれど、人が生きるために必要なもの全てに社会的遺伝子は関わっていて、それらに生かされながら私たちは1として存在している。
人口:1は、子どもを作って完了じゃない。
受精卵で一丁あがりじゃない。
生かしていく周囲、生きていく本人がいないと成立しない。

子どもをもたないから生産性がないなんて意見は、はっきり言って、生きるということを馬鹿にしていると思う。
生まれてくること、生きていくことは、そんなに簡単じゃない。

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