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音のデリカシー

デリカシー【delicaty】
感情、心配りなどの繊細さ。微妙さ。「ーに欠ける振る舞い」「ーのない人」
小学館・デジタル大辞泉

先日、尊敬するトロンボーン奏者から「note読んどーよ!」と告げられて嬉しさ3割、恥ずかしさ7割。

久しぶりの投稿です。

さて、ここのところ、吹奏楽の演奏会とコンクール、ソロのレッスン受講、金管アンサンブルの本番と、色々なスタイルでの演奏機会があり、その都度自分の立ち位置みたいなものを模索していました。

そんな中、ふとタイトルにしている「音のデリカシー」について、自己問答することがありました。

「デリカシー」という単語そのものの辞書的な意味はWeb辞典から引用を引っ張ってきましたが、
例文を見て、マイナスの文脈で使われることが多い言葉だなあ、と改めて感じます。笑

あ、日常生活上での「デリカシー」については触れません。いわゆる「マナー講師問題」として度々ネット上で議論されているように、
およそ社会的、人道的に逸れていない行動や言動に対しては人それぞれに価値尺度があると思いますので…。
(余談:私は相当デリカシーのない人間のようで、気をつけても気をつけても妻から指摘されてしまいます。)

音楽表現上のデリカシーについて。

「音楽」という営みの中では、音楽を演奏するための演奏形態が何通りかあります。

  1. 独奏(無伴奏)

  2. 独奏(伴奏含む)

  3. 2重奏(重唱)

  4. 室内楽(アンサンブル)

  5. 大編成合奏(合唱)

の5形態に大きく分けられると考えられます。
2と3の境界線は非常に難しいですね。
議論の余地がある分け方だとは思いますが、一旦これで…

私の周りには、4.室内楽と5.大編成合奏を主たる演奏活動の場に据えている方が多くいらっしゃいます。
もちろん、私もその一人です。

1.無伴奏独奏では、自らの持つ音楽世界を一人きりで表現し、聴衆に何らかのメッセージを訴求したり、楽しんでもらったりすることが目的となります。(魅力的ですよね〜。いつか絶対にチャレンジしたいです。)

2.伴奏を含む独奏では、ピアニストやオルガニストなど、伴奏者とともに独奏者が思い描く音楽を作り上げ、聴衆に届けることが目的でしょう。

3.2重奏では、同一楽器や声部の1st,2ndパートに分かれて、
もしくは、それぞれの楽器や声部での演奏で、基本的に対等な立場で一つの音楽を形成していきます。

4.室内楽では、小集団内で複数のパート及び声部に分かれて演奏します。基本的にメンバー自身で全体を統率し、互いの主張を尊重しつつ時には対話を重ねながら音楽を構築していきます。

5.大編成では、数十人以上の奏者が集まって演奏します。指揮者(音楽監督)や首席奏者、各セクションごとのリーダーによる統制により、音楽を作ります。

さて、「複数人で」音楽を演奏したことがあれば、「音を出すときは、周りを意識しなければ」という意識が働くのは当たり前かと思います。
ここで意識すべき、「音楽作りの方向性を決定付ける主体」とは、誰にあたるのでしょうか?

先で長々と述べた中にもありましたが、これは

1…独奏者自身
2…独奏者
3…2名の演奏者
4…各奏者
5…指揮者/音楽監督、各セクションのリーダー

と言ってよいと考えます。

演奏編成が小さければ小さいほど、作り上げる音楽の中で演奏者が担う責任は大きく、編成が大きくなればなるほど、演奏者が担う責任自体は全体に分散されます。

また、大編成になると「指揮者/音楽監督」の意向による部分がかなりのウェイトを占めることもあり、演奏者自体の責任は小さいものとなると言えるでしょう。

ちなみに、
「演奏者の責任」と一言で言うのは簡単ですが、その中には

出している自己の音に対する責任(正確な音程やリズムかどうか)

自己の音と他者の音との調和性(音程やテンポは周りと合っているか、バランスはよいか)

人間関係上の良好さ、志向の相違による不和を生まないか(それが他者に影響しないか)

などなど、掘り下げると多岐に渡る事項があります。
3つ目に関しては、音楽は人と人との社会的な営みなので、当然(致し方なく)入ってくるのかなと思います。

これらを考えると、やはり一般に、演奏編成の大きさは各演奏者が担う責任の大きさに反比例する、と言えるように思います。

ここで、タイトルにしている「音のデリカシー」に立ち返りますが、少し私自身の話を…。

先月になりますが、
ご縁があり、フランスのオーケストラに在籍し活躍されている、水中豊太郎先生の個人レッスンを受講することができました。

6月頃からトマス・スティーブンスの「古風な様式による変奏曲」という楽曲を練習しており、この機会にと見ていただきました。

1時間という短いレッスンの中で、何度も指摘を受けたのは、
「音の扱い方で音楽の流れが大きく変わる」ということでした。

「記譜されているアーティキュレーション(結構細かい!)をとにかく正確に、かつ大きな音楽の流れを損なわないように。」

「表現したいイメージを具現化するために、知識に裏付けられた楽曲解釈をするということ。」(弦楽器の指替えやアップボウ/ダウンボウの性質を生かしたアゴーギクを例に)

チューバという楽器は、その役割の性質上、大編成の中で演奏していると、どうしてもこのあたりの意識が薄らぎがちです。
しかし、レッスンを受け、音楽の表現者として絶対に薄れさせてはいけないと改めて思いました。

一つとして意思のない音を演奏してはならない。
というのは、冒頭に出てきたのとは別のトロンボーン奏者の友人の言葉ですが…。
まったくそのとおりだと思いました。
でも、到底足りなかったことに気付かされました…。

楽曲に対するデリカシーの欠如。
表現者としては致命的ですよね。

対人関係でも、
「あ、これを不快に思う人がいるんだな」と思ったことは、以降極力しないように心がけると思います。
今まで以上に高感度・高品質なアンテナを張って、今後の音楽表現に生かしていくべきだと心に刻みつけた機会となりました。

特に、先日の金管アンサンブルでの本番では、チューバの立ち位置について、かなり考えさせられました。

基本的に、金5でも金8でも金10でも、ホルンとチューバって「一人職」なんですよね。
「保健室の先生」とか、「マンションの管理人さん」とか、「バーテンダー」のような…。
伝わりにくい例えで申し訳ないです。

他にも教職員とか、清掃スタッフとか、ホールスタッフや厨房の人とか、人員はいるけど、
その部屋でその仕事ができるのはその人ひとりだけ。

我々一人職が持ち合わせているデリカシーの度合いで、全体の完成度やグルーブ感、ライブ感が決定付けられる気がします。

吹きやすかった、とか、
何も意識しなくても自然に合った、
といった感想を貰えることが一番ありがたいな、と思います。

いや、もちろん複数人いる楽器はそうではないのかというわけでは決してないのですけどね!
持ちつ持たれつの関係だと思いますし、むしろトランペットやトロンボーンのニュアンスを受けてアプローチすることも多いですから。

そういう、色々なアプローチに触れられるというのも、自分自身の引き出しの中身を充実させる上で大切だと思います。

以前は周りのアプローチを無視して、自分の良しとするアプローチを押し通そうと演奏してしまうこともありました。非常にデリカシーの足りない、申し訳ない行為でした…。
恥ずかしいですね。

あと、単純に演奏技術が追いついていないのも、聴き返していて痛々しく思えてなりません。
鍛錬あるのみです。

最終的に自省録になってしまうのですが、、
今後もデリカシーのある演奏をしようと思います。


また、今回の記事でのツッコミどころとなっている、「大きな編成の際に責任感が散漫にならないための各奏者におけるモチベーション管理」について、今後の課題として考えてみたいと思います。

ご清聴、ありがとうございました。

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