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知的障害がある子どもにはテレパシーという特殊能力が備わる世界③

栗山さんの苦悩


栗山さんの家は、敷地内同居をしている。
義両親が隣に住んでおり、しかも、常日頃から栗山さんは、育児について何かと口出しをされていた。
特に優君の障害について、義両親は無理解であり、母親である栗山さんのせいにしていたことは、栗山さんの悩みの種だった。

「ねぇ、あなた…。優はたしかに発達がゆっくりだけど、療育に通うようになって、できることも少しずつ増えてきたの。お義母さんがまた今日もうちに来て、優がうるさいってひどく怒っていったんだけど、あんまり強く叱るのはあの子には逆効果だと思う。あなたからも、少し言ってくれない?」
深夜23時。
仕事から帰宅した夫に栗山さんがおずおずと話しかけた。
たまりにたまっていた思いを、打ち明けようと勇気を出したのだ。
しかし、返ってきたのは想像以上に痛烈な言葉だった。

「おまえは本当にダメなやつだな。俺の負担を増やすなよ。子育てはお前の担当なんだから、母さんともうまく協力してやってくれよ。」

「でも…お義母さんは私の話なんて聞いてくれなくて。」
「だからなんだよ!おまえが頼りないから母さんがいろいろアドバイスしてくれてるんだろ?優の障害?だって、自分の子育てがうまくいかないのを、何かと理由付けて認めようとしないだけじゃないのか?」

自分を一瞥して去っていく夫の姿を見ながら、栗山さんは言葉を失った。
夫はいつもこうだ。
何を言っても義両親の考えに寄り添うばかりだった。

「あなたの育て方が悪いから、優君がこんなふうになるのよ」
義母の言葉が耳にこびりついて離れない。
栗山さんは優君の育児で疲弊し、自分自身にも自信が持てなくなり、心身共に弱っていくのだった。
疲れた体をゆっくりとひきずりながら、栗山さんは優君が眠るベッドの横に体を横たえ、そのまま眠りに落ちていった。

あの頃


「俺の地元に、一緒に帰ってくれないか?」
栗山さんが夫からそう打診を受けたのは、優君がまだお腹にいる時だった。
職場で出会った夫と結婚し、2人でお互い忙しく働きながらも楽しく過ごしていた日々。
栗山さんは、そんな毎日にも満足していたが、これから生まれる息子との生活にも、ワクワクしていた。
家族3人、大変なこともあるだろうけど、きっと幸せな毎日が待っていると信じて疑わなかったのだ。

しかし、夫からの急な打診。
正直、戸惑った。

「俺は長男だし、いずれは両親の近くに住んで、いろいろと面倒を見ないといけないと思ってたんだ。でも、いきなり同居とか言うんじゃない。ちょうど父さんが、実家の敷地内に家を建ててくれるって言ってるからさ。家賃もかからなくなるし、これから子どもが産まれたら、いろいろと手伝ってもらいやすくなるし、いい話じゃないかと思うんだ。」
「これは名案」とばかりに笑顔で話す夫は、この計画に1ミリの不安もないようだ。

しかし、栗山さんは不安でいっぱいだった。
「えっと…私、うまくやっていけるかな…?」
夫の気持ちもわかるがゆえに、はっきりと断ることもできず、もごもごと言った。

「大丈夫だよ!うちの母さんは社交的で良い人だから、しゃべるのが苦手な君も、頼りやすいと思う。」
陽気に言う夫の意思は、もう変わらなさそうだ。

そうして流されるまま、栗山さん夫婦の引っ越しはトントン拍子に進んでいき、優君を出産後、流れるように仕事も退職したのだった。

(そういえば、あの頃は私、「おまえ」なんて呼ばれてなかった…。)

たった数年前の出来事なのに、ずいぶん昔のことのように感じる。

あの頃、ちゃんと自分の気持ちを伝えていれば、もっと夫に強く言っていたら、もっと違っていたのかなどと、ぼんやりと考えながら、栗山さんは目を覚ます。

(ママ!おそといくー!)
すぐさま隣から優のテレパシーが聞こえ、こんな早朝からパジャマで外に出られたら、また義母に何て言われるか…などと鬱々としながら、栗山さんは優君と一緒に起き上がるのだった。
優君の手をしっかりと握りながら。

続く優君の休み


春海はある時、栗山優君が発達支援センターを休みがちになっていることに気づいた。
最初は「ちょっと風邪気味で…」などと、毎回連絡をくれたのだが、最近は無断欠席も増えた。
なんだか嫌な予感がする。
そんな中、元気な声が職員室に響き渡った。

「すみませーん!あっ、三島先生!ちょっとお話いいですか?」
西森さんだ。

春海が廊下に出ると、西森さんが自身のできる最大限に声をひそめて、春海に話しだした。
「あの…栗山さん、最近お休みしがちじゃないですか。私、心配になって何度かラインもしたんですけど、返事がなくて…。栗山さんって、いつも必ずすぐに返事くれる人なんですよ!だからなんだかこう…気になっちゃって。何か知ってます?」
栗山さんと仲良しだった西森さんは、心底心配そうだ。
いつもは元気いっぱいの表情が、今日はわかりやすく曇っている。

「大丈夫かな、栗山さん…」西森さんは、心配でたまらないという様子で、つぶやいた。

「実は、発達支援センターにも、最近は連絡がないんです。栗山さんは無断欠席なんてするような人じゃないので…気になりますよね。」
春海は言葉を選びながら、続けた。

「私からも、電話してみますね。西森さん、もし栗山さんと連絡がとれたら、センターにもお電話いただけるように、伝えてもらえますか?」

しかし、春海はその後何度も栗山さんに電話をかけたが、つながらなかったのだった。

春海の行動


春海は、心配のあまり栗山さんの家を訪れることにした。
しかし、玄関のチャイムを何度も鳴らしても、返事はない。
周囲は静まり返り、不安が募るばかりだった。

その日、発達支援センターに戻った春海は、気持ちが重く、栗山さんのことを考えていた。
するとその時、センターの玄関が開き、裸足の少年が駆け込んできた。

「優君?どうしたの?」春海は驚きながらも、駆け込んできた優君を抱きしめた。
彼の足元は汚れ、汗ばんだ顔には涙の跡があった。

(たすけて…ママが…いたそう…こわい…)

頭がガンガンするほど強いテレパシーが、優君から流れ込んできた。
涙を浮かべた目が、まっすぐに春海を見据えている。

(これは、ただごとではない)
そう感じた春海はすぐに我妻さんに連絡を取り、優君の状況を伝えた。
優君の無事を確認しながら、栗山さんの家に何が起きたのか、心配が募るばかりだった。

我妻さんはすぐに対応を開始し、地域のサポートネットワークに連絡を取った。
春海と我妻さんは、栗山さんを助けるために全力を尽くす決意を新たにした。

(栗山さん、私たちがついています。あなたも、優君も一人じゃないんです。)
春海は心の中で誓った。

栗山家


我妻さんと春海は急いで栗山さんの家に向かった。
しかし、チャイムを押しても反応は無い。
思わず春海がドアをドンドン叩くと、隣の家から老婦人が出てきて、いぶかしげにこちらを見ている。

「なに?あなたたち。」

「発達支援センターの者です!先ほど栗山優君がセンターに来まして、今、優君をセンターで保護しています。栗山さんと連絡がとれないのですが、ご親戚の方ですか?」
春海がまくしたてるように言うと、老婦人はおっくうそうに眉間にしわをよせて言った。
「まったく…あの人は何をしてるのかねぇ、子どももちゃんと見られないで。」
老婦人は自分の家に戻り、鍵を持って出てきた。

(優君のお祖母ちゃん?)
心の中で春海が考えていると、その人はゆっくりとした手つきで栗山家の鍵穴に鍵を差し込み、ドアを開いた。

薄暗い部屋の中はよく見えないが、奥から荒々しい音をたてながら、一人の男性が出てきた。
「ちょっ…何だよ母さん!…こちらは?」
焦ったような顔を浮かべて、男性は春海と我妻さんを見る。

「私たちは、優君が通っている発達支援センターの者です。優君が先ほどセンターに来まして、何かあったのかと思い、こちらに伺わせていただきました。」
首から下げた職員証を見せながら、我妻さんが落ち着いた口調で言った。

「優が?!まったく…またふらふら出歩きやがって。」
男性は吐き捨てるように言うと、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。

「ご迷惑をおかけしてすみません、優の父親です。優は今は、センター?に?すぐに迎えに行きますので。」
「ちょっと待ってください!奥さんは、栗山さんは、どうされていますか?最近、連絡がとれなかったので。」
靴をはいて今にも出かけようとする父親を制し、春海は言った。

「妻は、今は出かけています。もういいでしょう?優は時々出歩く癖があるんですよ、そんなに珍しいことじゃない。」
心底めんどうくさそうに、父親は言った。

その時だった。

ガシャーン!!

中から何かが割れる音がした。
栗山さんは外出中だとこの人は言った。
それならばこの家には誰がいるというのだろう?

とっさに春海は、父親の腕の下をすり抜けて、家の中に走りだしていった。
「おい!人の家に勝手に!!やめろ!!」
背後から男性の怒鳴り声がする。
たしかに不法侵入だ。
それでも春海は、考えるよりも先に足が動いていた。

音のした方へ走っていくと、暗い部屋の中に、ガラスの花瓶が落ちていた。
そして、その横には…。

「栗山さん!!」

床に座り込んで春海を見上げる、栗山さんの姿があった。
部屋の中は薄暗いが、玄関から差し込んだ光でうっすら顔に赤いものが見えた。

「血…。」
急いで部屋の明かりをつけるべくスイッチを手あたり次第押すと、部屋が明るくなった。
すると、そこには栗山さんの衝撃的な姿が浮かび上がった。

顔は腫れあがって部分的に青くなっている。
鼻からは血が流れ、手足も所々青ずみができていた。
髪は乱れ、困惑とも絶望ともとれないような表情が浮かんでいた。

「ど、どうしたんですか?!」
春海が声を張り上げた時、玄関から荒々しい足音が聞こえ、先ほど父親と名乗った男性が入ってきた。

「人の家のことに首を突っ込まないでください!早く帰って!!」
男性は強引に春海の腕をひっぱって部屋から引きずりだそうとしたが、春海は抵抗する。

「いたっ!これは、DVですよ?!あなたがやったんですか?!」
大きく声を張り上げた春海に一瞬たじろいだ男性だが、すぐに「うるさい!!」と言って春海を押し返そうとする。
男性の後ろには、先ほど鍵を開けてくれた優君の祖母が、目を見開いて呆然とした表情で立ち尽くしていた。

そして、その更に後ろに我妻さんの姿が見えた。
「カシャカシャ」
我妻さんはスマホのカメラを構え、勢いよくシャッターを切っている。
「おい!やめろよ!撮るな!!」
男性が制しようとしたが、今度はよく通る凛とした声で、我妻さんが言い放った。

「警察を呼びました。もう、観念なさい。」

我妻さんの声には、有無を言わせない重みがあった。
男性は力なくうなだれると、その場に座り込んだ。

事件のあと


すぐに警察が到着し、優君の父親は連れていかれた。
栗山さんは、父親がいなくなるとか細い声でゆっくりと、少しずつ、事情を話してくれた。

「私が…私が悪いんです。優のことも、家のこともちゃんとできなくて。だから…。」
「この傷や、ぶたれた痕は、全部、ご主人にされたことなのね?」
自分を責め続ける栗山さんに、我妻さんが冷静に状況を聞き出していく。
栗山さんは、こくんと頷いた。

見るからに明らかなDVだった。
栗山さんの夫、優君の父親は仕事が忙しく、家事も育児も栗山さんに任せっぱなしだったらしい。
そのくせ、優君の発達が遅れ、障害があることがわかると、すべてを栗山さんのせいにして、罵倒していたという。
最初は言葉の暴力だったものはエスカレートし、手が出るようになり、体や顔に痕が残るようになってからは、栗山さんは外出を避けるようになっていたらしい。

「それで、療育にも来なかったんですか…。」
春海がつぶやくと、栗山さんは条件反射的に「ごめんなさい」と呟いた。

「違います!療育に行かせろって責めてるんじゃなくて!もっと、私たちを頼ってくれたら…外に出てきてくれたら…こんなこと…。」
話しながら、春海は自分の無力さに涙が出てきた。

「栗山さん、あなたは何も悪くないのよ。あなたは本当にいいお母さんよ、本当によくやってる。あんな男に負けてはだめ。もっと、自分に自信をもって。」
我妻さんが栗山さんの目を真っ直ぐ見て言う。
「あと、優くんね、とても優しい、良い子に育っているわ。お母さんが大変な目にあっていること、助けてって、ちゃんと私たちに伝えてくれたの。あなたの子育ては、間違っていないわ。」
その言葉を聞きながら、栗山さんはただただ泣き崩れるのだった。

母親


「お疲れ。今日は…大変だったね。」
春海がダイニングの椅子に呆然と腰かけていると、夫の夏樹が声をかけた。
手には湯気がたつコーヒーが入ったカップ。
そっと春海に差し出した。

「DVなんて…ね。本当にこんなに身近にあるのね。」
夏樹がいれたコーヒーを口に含みながら、春海はつぶやく。

あの後、栗山さんの話を聞き、警察の事情聴取などを受け、今後の栗山親子の行き先について検討し、各所に連絡し…と、やることは山ほどあった。
幸い、事情を話して亜紀は保育園で延長保育をしてもらい、冬馬は事情を聞いた夏樹が残業を切り上げて会社から急いで帰り、障害児の放課後の居場所である「放課後等デイサービス」に迎えに行っていた。
バタバタしながらも、冬馬と一緒に買い物に行き、お総菜などを買って夕飯を用意してくれた夏樹。
なんとか仕事に一区切りをつけて、亜紀を保育園からピックアップし、家に着いた春海は、家で「おかえり」と言って迎えた夏樹の顔に、何よりもほっとしたのだった。

「あなたがいてくれてよかった。今日は本当に、ありがとう。」
春海が御礼を言うと、夏樹は首を横に振った。
「いや…いつも春海は本当に大変だなと思ったよ。冬馬、迎えに来たのがママじゃなかったからびっくりしちゃったみたいでさ、デイで帰りがけに暴れて大変だった。買い物に行っても、冬馬が食べるものって何だったらいいのか、俺、よくわかんなくてさ。いつも本当に春海に頼りっぱなしだったなって。」

頭をかきながらうつむく夏樹。
きっと、今日は夏樹も相当大変だったのだろう。
それでも、こうして自分を労わってくれる彼が夫でよかったと、春海は心の底から思うのだった。

「母親だってね、別に完璧じゃないんだよ。私だっていつもてんやわんや。冬馬のことだって、よくわからないことだらけだもん。」
コーヒーをもう一口飲みながら、春海は口を開いた。

「でも、春海は冬馬が考えていること、わかるんだろ?それだけでも違うさ。俺はしゃべれないあの子が何考えてるか、本当に全くわからないよ。」
夏樹はちょっと意外そうに春海の顔を見た。

「そんなことないよ…。考えていることがわかっても、何でそう思うのか、何でそんな行動に出るのか、理解できないことばかり。」
春海は夏樹の目線を受けて、真っ直ぐ見返した。
「むしろ…母親『だけ』があの子の考えてることがわかるって、残酷だとも思うわ。『冬馬のことがわかるのはあなただけ』って、あなたも含め、みんな思っちゃうでしょ。そんなことないのに。母親だって、だれかに寄りかかりたいよ。」

2人の間にしばしの沈黙が流れた。

「栗山さん…?も、そんな気持ちだったのかもね。」
沈黙を切り裂くように、夏樹がつぶやいた。
「全部自分が背負わなきゃいけない、自分だけが子どものことをわかってあげられるって、周りに追い込まれて、自分でも追い込んで、そうして、助けを求められなくなっちゃったのかな。」
苦しそうな表情を浮かべる夏樹。
「そうだね…。」
春海はもうそれ以外、言葉が出なかった。

それぞれのその後


事件の後、栗山さんと優君は、DVを受けた女性のためのシェルターに保護された。
優君はまたしばらく療育をお休みすることになったけれど、今度は栗山さんの事情も把握できている。
春海は自分の無力さを感じずにはいられなかったが、ただただ日々の仕事に邁進することで、前に進んでいた。

そして、季節は移り、発達支援センターの夏祭りの日がやってきた。
センターに通う子どもたちも親御さんたちもやってきて、ミニ縁日や盆踊りなどを楽しむ。
春海は職員として大忙しだったが、すみれ組の親子の楽しそうな顔を見るのが、何よりのごほうびだった。

「三島さん!」
陽太君を連れた笹川さんが声をかけてくれた。
陽太くんはヨーヨー釣りでとったヨーヨーを、興味深げになでまわしている。

「今日は亜紀ちゃんは来てないの?…って、忙しくてそれどころじゃないか!」
笹川さんはにこやかに言った。
笹川さんは少し前に、仕事をやめて、陽太君も保育園を退園していた。
障害がある子を育てる親が、子どもの障害を理由に仕事を手放すのは、なんとも歯がゆい思いがある。
しかし笹川さんは、陽太君の他害によって居づらさを感じていた保育園にも、もう限界を感じていたようだった。
今は療育一本で、すみれ組の保護者とも仲良くしながら、陽太君と発達支援センターに通っている。
何が正解かはわからないが、笹川さんの表情が明るくなったことを、春海は嬉しく思っていた。

笹川さんと談笑していると、後ろから西森さんがやってきた。
「お2人さーん!ちょっとこっち来てー!サプライズの人が来ましたよー!」

2人が見ると、なんとそこには
「栗山さん!!」
笹川さんと春海の声がハモった。
優君を連れて、ちょっと恥ずかしそうにはにかむ栗山さんが、そこにいた。

「久しぶり!ずっと会えなかったから、心配してたんだよー!」
笹川さんが栗山さんに声をかける。
栗山さんの事情は、職員と西森さんしか知らないので、笹川さんの心配はごもっともだ。

「ごめんなさい…ちょっと、いろいろあって。」
栗山さんが少し困ったように微笑む。
しかし、その顔はつきものがとれたようにすっきりしていた。

「三島先生。」
栗山さんは、春海の前に進んできた。
「この間は、本当にいろいろと、ありがとうございました。実は夫とはその後、離婚することになって、私はこれから、実家に帰ろうと思っています。」
突然の告白に、春海は言葉を失う。

「我妻さんにも、さっきあいさつしてきたんですが…ここの発達支援センターも、退園することになりました。これまで、本当にお世話になりました。」
そう言うと、栗山さんは深々と頭を下げた。

「そんな、私は何も…。」
春海は、またもや涙が出そうになってしまった。
「栗山さん、よく、決断しましたね…。これからも、栗山さんの幸せを祈っています。」
春海はそう言うと、栗山さんにギュッと抱きついた。
栗山さんも抱き返してくれて、2人で笑いあった。

一人じゃない


(お母さん、あと何日で学校が始まるの?)
ソワソワと家の中をシャトルランのように行ったり来たりしながら、冬馬が心の声を春海に投げかけた。

「あと2日だね。」
春海はそんな冬馬を横目で見ながら答える。
夏休みも終わりに近づいていた。

「2日ってなにがー?」
テレビを見ながらくつろいでいた亜紀が声をあげる。
そうだった。
冬馬の声が聞こえているのは春海だけ。
自宅のリビングで突然母親が「あと2日だね」とつぶやいたら、「なにが?」と思うだろう。

「お兄ちゃんの夏休みが終わって、学校が始まるまであと2日だよって言ったの。」
夕飯の支度をしながら春海が答える。

「へー、そっかー。」
たいして興味がなさそうにつぶやく亜紀。

(学校!学校!)
シャトルランをしている冬馬の顔が笑顔になる。
冬馬は本当に学校が好きだ。
入学を決めた時は、いろいろと悩んだりもしたが、特別支援学校に通ってよかったと思う。
学校が楽しいって、何よりも大事なことだと思うからだ。
そして、自閉症がある冬馬は何よりもルーティーンを大事にするため、時間割があって、毎日ルーティーンのかたまりのような生活をする学校という場所は、非常に居心地がよかったらしい。
しかし逆に、長期休暇になると、不規則な生活に機嫌が悪くなりがちになる。
そのため、夏休みがもうすぐ終わるということは、春海にとっても喜ばしいことだった。

「お兄ちゃんは学校が楽しみでしかたないみたいだねー。」
「あれ?亜紀にもわかるの?」
「そんなのテレパシーが使えなくたってわかるよ。」
ケタケタ笑いながら亜紀が言う。

たしかに、冬馬の様子から夏休みの終わりが待ちきれないことは、容易に想像できた。

「ピロン」と携帯が鳴った。
春海が急いで見に行くと、我妻さんからのラインだった。
「栗山さんの引っ越し先での優君の療育先、決まりました。今度引継ぎに行きますが、三島さんも行けますか?候補日は…。」
ラインを読みながら、「栗山さん!よかったねー!」とガッツポーズをする春海。
もちろん引継ぎに行く予定だ。
新しい場所でも、栗山さんと優君が、充分なサポートを得ながら暮らしていけるように。

子どもに障害があって、過酷な毎日を生きる私たち。
言葉を話せなくても、テレパシーがあるといっても、それで子どものすべてがわかるわけではない。
むしろ母親であることに重荷を感じても、子どもと自分をつなぐ鎖のように、テレパシーが重くのしかかることもある。
でも、私たちは一人じゃない。
手を伸ばせばどこかに助けはある。
それを信じて、これからも毎日を生きよう。


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