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自分を生きるという戦いをやめない

この間、久しぶりに「いわき回廊美術館」に行ってきた。山仕事を手伝おうと思いつつ、なんか、単にゆっくり散歩しただけになってしまった。でも東京はコロナウィルスの問題で閉塞感が広がっていたので、誰もいない山を散歩して、桜の蕾を見て、ブランコを漕いだだけでもすごく気分がよくなった。

夕飯を食べながら、志賀さんに、「川内さんはここに通うようになって何年になるの?」と聞かれた。「五年目ですかねー」と答えると、「えー!もうそんなになるの? 早いねー!とビックリしていた。
「だって、ゼロ歳だった娘がいま5歳ですからねー」
「そっかー!俺ももう70歳だからなあ」

3月11日の今日。
たぶん志賀さんたちは、変わらずに山の手入れをしていることだろう。草を刈り、藪を片付け、枝を剪定している。そしてお昼になったら美味しいごはんをたべ、お茶を飲んでいるだろう。それは時として当たり前のことではない。でも、今日もそれを当たり前の日常として続けられることは、すごいことだ。

九年前、東日本大震災と福島第一原発事故が起こったあと、私が思ったことを書こう。あれほどの凄まじい絶望が東日本を覆い尽くしたのだから、この先の日本は逆によくなるばかりで、どちらかといえば未来は明るいのではないかと思った。しかし、九年経ってみれば、この楽観的な予想は完全に間違っていた。九年の間に社会は疲弊し続け、世の中の手触りはどんどんザラザラとしてきている。自分たちさえよければいいって考える人が増えてる感じがする。仕方がない。震災や原発事故がもたらした社会的、そして経済的、心理的被害はあまりにも巨大で、そこに折り重なるように様々な危機がこの国を襲っている。閉塞感や格差や分断が広がり、生きづらさを抱える人が増えている。でも、わかるんだ。私もそうだ。疲れてくると、何もかもどうでもいい、みたいになって、世の中のことに関心を持てなくなってしまうんだ。

もちろん、そんな中でも、たくましく、楽しく、希望を持って、日々を大切に自分らしく生きている人もいる。
尊いと思う。
日常を続けていくこと。自分を生きることを諦めないこと。楽しむこと。
それこそが、尊い。

話は変わるけど、この間『タゴールソングス』という映画を見た。めちゃくちゃいい映画だった。アジア人として初めてノーベル賞を受賞したタゴール。その彼が作った詩歌が、どのようにして現代社会に生き続けているのかを追ったドキュメンタリーだ。そこには、私が「バウルを探して」で描いたベンガルの地の風景やタゴールの家も出てきた。でも、私が何が驚いたかって、タゴールの詩がいまだに人々の拠り所になっていることだ。若い人も年老いた人も、路上でタゴールの詩を歌い、詩の意味について話し合う。百年前に書かれた言葉から希望を見出し、自分の人生を良きもの、美しきものにしようと努力を重ねている。そこに心からの感動を覚えて、私は泣きそうだった。
自分の中に詩を持っていること。それは、豊かさそのものだ。これ見たときに、ああ、そうだよなあ、これだよなあ。自分が尊いと思うもの。それは文化なんだ。

桜でも詩でも歌でも本でもアートでも。
それは、楽しい時も辛い時も誰かのよりどころになる。文化がなくては人は希望を持って生き続けることはできない。

ここ一年ほど、私はずっと自分の書くものに自信が持てずにいて、自分が書いたものを全て破り捨てて、書くことをやめちゃおう、と思うことがままある。どうしてそう思うのかはここに書かないけど、とにかくそうなんだ。でも、バウルの歌とか、いわきの桜とか、大好きな本を読んでいると、そんなヤケくそな気分を少しずつ鎮めてくれる。自分の表現、という喜びの原点を思い出せてくれ、「いまここ」に気持ちを引き戻してくれる。ときに私たちは時代の嵐に飲み込まれへこたれそうになるけれど、そんなときこそひとりひとりが、文化というものを錨にして、「自分」というものに踏みとどまっていくことことができれば、それ自体がいつしか時代になるのかもしれない。

この先、どんなに大変なときでも、また自信がバラバラになっても。この先も生きている限り、自分の人生を生きるという戦いをやめない。いま私たちがやってるのは、そういう戦いなんなんかな。

2020年3月11日


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