【179日目】合言葉はノートブック


July 31 2011, 9:53 PM by gowagowagorio

7月28日(木)

「いーきーたーくなーいっ!」

また、始まった。木曜恒例の、バイオリンスクールボイコットである。大抵は、いいから行くぞ、と追い立てれば素直に付いて来るし、いざレッスンが始まってしまえば、けっこう楽しみながら、その場では集中して取り組んでいる。ところが、今日の拒否反応は、いつもより強かった。

「いいから早く行くよ」

いつも通りナツモを追い立てても、

「いーやーだっ」

と床にうつぶせになり、大の字状態で貼り付いたまま動かない。

・・・マズいな。僕は密かに焦りを覚えていた。

いつも教室に早く着き過ぎて時間を持て余しているため、今日は出発時間をレッスン開始に間に合うギリギリの時間まで引っ張ってあったのだ。

「はやくはやく!」

レッスンに間に合わない事を恐れて、気の利いた説得方法も思いつかず、闇雲にナツモを急かす。一向に動く気配のないナツモに業を煮やし、僕はナツモのバイオリンを掴むと、とにかく玄関を出た。もしこれでもナツモが付いて来なかったらどうしよう。ナツモなしで教室に乗り込むのか?

・・・しかし、その心配はなかった。

僕が玄関を出ると、途端にナツモが泣き始め、「いきたくない!」と言いつつも、僕を追いかけて玄関までやって来た。これならまだ脈はある。僕は内心胸を撫で下ろしつつも、ナツモに対して苦言を呈す。

「練習に行きたくないなら、なんでバイオリン欲しいって言ったんだよ?」

「・・・」

「そんなにイヤなら、もうバイオリン、バビーに返すよ」

「ダメーっ!」

「ちゃんと練習に行かないなら必要ないだろ?」

「・・・」

ナツモは黙ってしまったが、僕は構わずエレベーターに乗り込んだ。

「まってよー!」

ドアが閉まる寸前、ナツモは泣きながらエレベーターに飛び込んで来た。何はともあれ、ナツモを連れ出す事には成功した。しかし、連れ出すだけで大分時間をロスしてしまった。はたして間に合うだろうか?

こんな時に限って、タクシーが捕まらない。いや、何台か空車は通るのだが、17時に近いため、すべて乗車拒否される。17時を超えるとエクストラチャージを取れるため、ドライバーは皆それを狙っているのだ。

・・・なんてえ国だ。

走り去って行く空車のリアウィンドウに思わず中指を立てそうになるのを懸命に堪える。すると、気持ちの切り替えが早過ぎるナツモが、先ほどまでの涙など何処吹く風で陽気に宣言した。

「にじゅうまでかぞえると、たくしーくるんだよー、もっちゃんかぞえれるよ、ひひひ」

レッスンに間に合う事を半ば諦めていた僕は、ナツモのやりたいようにさせた。どうにでもなれだ。

「いーち、にーい、さーん、しー、ごー、ろーく、しーち、はーち、きゅー、じゅー、じゅういち、じゅうご、じゅうはち、じゅうく、にじゅう!」

不思議な事もあるものだ。随分端折られた20カウントをナツモが終えると、本当に空車を示す緑色のランプが道の向こうに現れた。

「ねー?」得意気なナツモ。

だが、乗車拒否をせず我々の前でハザードを焚いた、黒光りするジェントルなタクシーは、ベントレーの超高級タクシーだった。ベントレーのタクシーは、初乗り料金が既に、普通のタクシーでUEスクウェアまで乗った時の料金と変わらない。それ故に、彼らはエクストラチャージを狙うようなセコい事はしない。彼らはよくタクシースタンドでも一般市民からは敬遠される。こんな高いタクシーにホイホイ乗るのは観光客ぐらいなものである。しかし、背に腹は変えられない。今乗れば、オンタイムで教室に滑り込めるだろう。

なめらかにUEスクウェアのターミナルへ滑り込んだベントレーを飛び降り、2階へ駆け上がる。奇跡的に間に合った。ナツモも今は自らダッシュするほど気分が回復している。

よかった。ホッと胸を撫で下ろし、ウルフギャングバイオリンスクールのドアを開く。その瞬間、僕は違和感を覚えた。

「あれ?」

何故だろう?いつも受付に座っている、化粧が厚くて頬が赤過ぎる、お人形のようなお嬢様に挨拶する。

「ハイ」

「ハイ・・・」

何故か受付嬢女史も困惑気味の表情だ。何故だ?

僕がいつもの教室の前に、一つも生徒の靴が置いてない事に気がついたのと、受付嬢女史が申し訳なさそうに声をかけて来たのはほぼ同時だった。

「今日は、レッスンがないんだけど、メールは見た?」

そんなものは見ていない。

そうか。ここの入会手続きはアキコがした。つまり、伝えてあるアドレスはアキコのものだ。そして今アキコはシカゴにいる。

「たぶん妻が受け取ってると思うけど、彼女は今出張中なんだ。だから僕は気がつかなかった」

「あら・・・ごめんなさい。来週はレッスンあるから」

「いや、いいんだ。シーユー!」

「シーユー!」

受付嬢女史に、気の毒そうに見送られ、踵を返す僕とナツモ。教室を出たところで僕は、気まずさを押し殺してナツモに話しかけた。

「なんだよ、今日バイオリンないんだって」

「ねー?だからだよ、だからいきたくないって、いったんだよ」

「なんだよ、もっちゃん知ってたの?」

「ウン!」

もちろんナツモがそれを知っていた訳がない。コイツは、自分が先ほど晒した醜態を正当化しようとしているだけだ。

「うそつけ!」

「ひひひー!」

ナツモは習い事特有のプレッシャーからいきなり解放されたため、若干ハイになっている。その気持ちはよくわかる。

家族以外の人間との交流、上手くやらなくてはと必要以上に思いこむ事から来る、過分なストレス。僕も子供の頃、ピアノ教室にナツモと同じような気持ちで臨んでいたし、レッスンがないときは素直に嬉しかった。それでも、いざピアノを弾いているときはそれなりに集中していたし、曲が習得できた時の喜びもちゃんと感じていた。ただ、ナツモのように親にストレートに楯突いて「行きたくない」などと主張する程の根性はなかった。

ナツモのバイオリンにまつわる一連の行動を観察していると、7、8割方は僕に似ていて、親に楯突く部分だけアキコに似ているのではないだろうかと思えて来る。

いつもは行きも帰りもタクシーを使うのだが、今日は行きに随分と贅沢なタクシーに乗ってしまったため、バスでとぼとぼ家路に着いた。

夕食を二人で食べていると、ナツモが何やらごにょごにょと僕に訴えている。耳をそばだてると、どうやら

「ねえ、かいて」

と言っているようだ。僕に絵でも描いて欲しいのだろうか?

「ん?どした?」

「かいてよー」

「何を?」

「かーいーて!」

「だから何を?」

「のーとぶっく・・・」

ナツモが俯きながら口にしたのは、学校の先生に見せる連絡帳の事である。

ははあ、なるほど。

「もっちゃん、明日おとうちゃんが迎えに来るって書いて欲しいんでしょ」

ナツモは普段スクールバスでの送迎だが、明日は父親が迎えに来るのでバスは不要だと、連絡帳に書けと言っているのだ。

「そう、それだよー、それ」

ナツモは最初こそ恥ずかしそうに照れていたが、僕が意向を汲み取った途端、おとうちゃん、鈍いよ、と言わんばかりの表情を見せた。まるでカネの話をオブラートに包んで話す政治家先生のようだ。

「・・・わかったよ。明日迎えに行くよ」

「ごはんたべおわったら、すぐ、かいてね!」

明日はアキコ不在の最後の平日だ。大変な休日に入る前にゆっくりと僕の自由時間を堪能して鋭気を養いたい所だが、いじましく「ノートブック」という隠語を使ってまで僕に迎えに来て欲しいというナツモの期待を無下にはできないだろう。

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