【238日目】バイバイ


February 7 2012, 6:54 AM by gowagowagorio

9月25日(日)

今日も朝からピーカンだ。ようやく温まった水が心地良いプールに、ナツモやチーボー、ミノリの嬌声が響き渡る。

早いもので、S家のシンガポール滞在も今日で最終日を迎えた。僕は子供達がはしゃぐ姿を眺めながらも、さて、最終日に相応しい観光スポットは何処かという事に頭を悩ませていた。

S家が忙しい合間を縫って実現したせっかくの旅行だ。満足度の高いものにしてもらうために、ここはひとつ、シンガポールの魅力が凝縮され、かつ、ガイドブックにも載らないような知る人ぞ知るスポットという場所へ案内したいところだ。

「どこ行こうか」

「そうだねえ」

アキコと僕が知恵を絞っているところに、トモちゃんの声が割って入った。

「マーライオン見に行きたいんだけど」

マーライオン。

確かにシンガポールの顔ではあるが、世界三大ガッカリと揶揄される事の多いマーライオン。トモちゃんはどうしてもそこへ行きたいと主張する。マーライオンを間近で見なくてはシンガポール観光をした気になれないと言うのだ。

それは、ニューヨークに行ったのに自由の女神を見ないとか、パリに行ったのにエッフェル塔を見ないとか、エジプトに行ったのにピラミッドを見ないと言うのと同じ類の落ち着かなさなのだろう。

僕はやや拍子抜けしたが、そう考えると合点がいった。同時に、とっておきの場所へ連れていかなきゃというプレッシャーから解放されたのである。

晴れ渡る空の下で見るマーライオンは、なかなかどうして、悪くなかった。マーライオンをバックに口を大きく開けて自分が水を吐き出しているような写真やマーライオンが吐き出す水を手で受けるような写真を撮れば、否が応でも観光気分は盛り上がる。S家としても満足できたようで何よりである。

その後、遅めの昼食を摂りにデンプシーのPSカフェへ向かい、食後に、カフェのシグネチャーケーキでもあるダブルチョコレートブラックアウトにロウソクを2本立ててもらった。間もなく誕生日を迎えるチーボーの、ささやかなバースデーケーキである。

バースデーソングを歌い、チーボーがぎこちなく2回に分けてロウソクの火を吹き消すと、ナツモは待ちきれないとばかりに与えられたケーキを頬張り、口の周りにチョコレートのヒゲを付けるのだった。

これでS家のシンガポール観光は全行程を終えた。後はタングリンモールのアジア雑貨店で土産物を物色するのみだ。

我が家からタングリンモールへ向かう途中、シンガポール観光局の前を通るのだが、観光局の建物と建物の僅かな隙間から見える裏庭にはそこそこ立派なマーライオンが置かれている。アキコ曰く、シンガポール全土には、全部で7体のマーライオンがいるという。その中でもここのマーライオンは知る人ぞ知る、隠れマーライオンなのだそうだ。

土産物の購入も終え、後は出発までのんびりするだけとなったS家だったが、最後にもう一度、とチーボーを連れてプールへ向かった。もちろんナツモもついていく。

ナツモがそうであったように、やはり子供同士で遊ぶと何かしらの化学反応が起きる。三日前は浮輪の使い方すらままならなかったチーボーも、今では気持ち良さそうに浮輪に身を預けて水面を漂っている。自慢げに水に潜るナツモに触発されたのか、いきなり浮輪を付けずに潜ったのはご愛嬌である。

18時を過ぎたあたりから、旅行最終日独特の、一抹の寂しさを孕んだ慌ただしい空気が部屋を支配した。

S家はもちろん、アキコもパッキングを進めている。実は今夜から出張で日本へと発つのだ。今回はナツモだけ、アキコに付いていく事になっている。随分と前から楽しみにしていたナツモのテンションは異様に高い。

いつものように、旅には邪魔になるだけで何の役にも立たない(しかし本人にとっては非常に重要な)ガラクタの山をリビングに築き上げ、アキコがそれを咎める。その声にS家が荷物を確認する声も重なる。

僕はスムーズなパッキングの進行を妨げないようミノリを抱いてその光景を眺めていた。慌ただしく動く皆を見ていつもと明らかに違う空気を感じ取ったのか、ミノリも僕の腕の中でやや興奮気味である。ブーブーと尖らせた口からヨダレの泡を飛ばしている。

パッキングもほぼ終わり、そろそろタクシーでも呼ぶか、という時だった。突然、僕に抱かれたままのミノリがリビングに集まる皆に向かって左手を振った。

そして。

「バイバイ」

確かに、ミノリがそう言った。明らかに、自分の意思で。

ミノリが振る手はまるでハエでも叩くようなでたらめな動作だったが、それでもそれは間違いなく、別れる相手に送るジェスチャーだった。

毎朝毎朝、アキコとナツモ、そして僕を見送るエリサに抱かれ、「セイ、バイバイ」と繰り返し言い聞かされて来た事が、ここで突然結実したのだ。

ミノリが初めて喋った言葉は、「バイバイ」。

今日、ここにそう記録しておこう。

我が家の中で一番エリサと過ごす時間が長いミノリ。そのミノリが喋りだす言葉は一体何語になるのだろうか、もしかしたら英語になるのではないだろうか。

僕はここのところ、そんな事をモヤモヤと考えていた。そして、ミノリが初めて口にした言葉は、「バイバイ」。「バイバイ」は日本語でも英語でも「バイバイ」だ。果たして、ミノリは何語のつもりで「バイバイ」と言ったのだろうか。

・・・いや、もしかしたら、日本語でも英語でもなく、エリサの母国語であるタガログ語の可能性だって、充分あり得る。

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