【172日目】激情劇場
July 28 2011, 8:23 AM by gowagowagorio
7月21日(木)
朝からナツモの咳が酷い。
熱こそあまりなさそうだが、なんだかグッタリと元気がないし、これは学校を休ませた方が良いだろう、と言う事になった。
アキコがナツモに「今日学校お休みでいい?」と尋ねると、あんなに学校が好きなナツモがそれを否定しなかった。これは本人もけっこうしんどいに違いない。そう確信して、僕は喉痛を押してベルリッツへ向かう。
アキコは家に残り、僕の帰宅と入れ替わりで出社しようと言う作戦だ。僕が帰る頃にはナツモの熱が上がってしまっていたりするかも知れないな、早く帰ってやらねば。
授業後、寄り道せずに(カフェでコーヒーだけ飲ませてもらったが)家路を急ぐ。玄関のドアを開けると、「おかえりー!」と必要以上に元気なナツモの声が響き渡った。
「ぷれいぐらうんどいこうよ!」
「・・・」
風邪で学校を休んだ事自体がナツモにとっては非日常である。その「非日常」がナツモのテンションを上げてしまっているのだろう。咳は依然として酷く、はしゃいでは咳き込む事の繰り返しだ。プレイグラウンドで遊んでいる場合ではなさそうだが、アキコがナツモに「昼寝をしたら遊んで良し」という約束を取り付け、なおかつ、ナツモは素直に昼寝をしたため、約束を守らざるを得なくなった。
まあ、下でチョロチョロ遊ぶ分には構わないかと思って連れて行く。遊んでいるうち、これだけ元気ならバイオリンにも行けるだろうと思い至り、それも連れて行く。何しろ高額のレッスン料を払っているのだ。元は取らねば、というセコい考えが働いているのは言うまでもない。
今更遅いが、これは多分、学校に行っても全く問題なかっただろう。朝、具合が悪そうに見えたのは単に昨夜寝るのが遅くなって眠かっただけに違いない。
−−
ここ最近、ミノリの掴まり立ちが進化している。安定性が増し、いつの間にか、片手を離すこともできるようになっていた。
今日ミノリは、掴まり立ちをしたまま床のタオルを片手で拾うことに挑戦していた。簡単ではないが、やってやれないことはない、今のミノリにとって、それはちょうどいい難易度の行為だろう。
ミノリは左手でソファに手をついて身体を支え、ぐっと腰を落として右手をタオルにかけた。このチャレンジもこれで成功かと思われた。
しかし、運悪く、ミノリは右足で、今拾おうとしているタオルの端を踏んでいた。それでは当然、いくら引っ張ってもタオルは途中で引っ掛かってしまう。そんなことに気を配れないミノリは、なぜか拾えないタオルに苛立ち、まさに力任せにタオルを引っ張り上げた。
次の瞬間、踏んでいたタオルに足を掬われた形でミノリの右足は宙に浮き、バランスを失ったミノリは左足を軸に半分回転してから床に崩れ落ち、頭を打った。オノマトペで「すってーん!」という表現がピッタリの、奇跡のような転び方である。
その瞬間を目撃していた僕とアキコは、もちろんミノリのダメージを心配した。が、
「くくく・・・ちょっと・・・ふふふ、だいじょうぶ?・・・ぷぷ」
と、笑う事を止められず、その瞬間をカメラに収められなかったことを後悔する気持ちの方が大きかったことは否めない。
−−
結局ナツモはその後も至って元気に夜更かしの時間帯へと突入した。
元気とはいえ、風邪を引いているのは事実だ。早く寝た方がいいに決まっている。僕自身だって喉の痛みが酷く、体調が優れない。
加えて、急遽、明日からアキコのシカゴ出張が決まった。出張期間は10日間だと言う。僕が育休を取ってからの最長出張になる。10日間というと、土日が2回も挟まるのだ。これは相当大変な事になるに違いない。
体調の悪さに加えて、10日間、アキコ不在でナツモとミノリの面倒を見なくてはならないという事実が、僕に過分なストレスを与える。
ナツモは相変わらず僕の忠告をスルーする。
「はやくオシッコして歯を磨きな、そしたら本読んであげるから」
僕はナツモがリビングに広げたままのレゴを片付けつつ、ナツモを部屋へと追い立てようと試みた。ここで、眠さも手伝って、ナツモがまたレディ・ダダとしてのパフォーマンスを発揮し始めた。
「じーぶーんで、かたづけたーいっ!」
「あっそ、それじゃ、残りのブロックは持って来なよ」
「ちーがーうっ!ぜーんーぶっ!」
僕はその理不尽な戯言に付き合う気など、さらさらなかった。コイツはただ眠いだけなのだ。だから、怒るだけ無駄なのだ。
僕は自分に懸命に言い聞かせた。
しかし、ナツモの金切り声は、そんな防御を突き破って神経に突き刺さって来る。気がつくと僕は、一度片付けたレゴを、箱ごと掴んでナツモにつかつかと歩み寄り、そこで中身をすべてぶちまけていた。
それがナツモのダダの炎に油を注ぐ事は百も承知である。そして、その行為は燃え上がった自分自身の激情にも油を注ぐ。
「これ、こんなにぜんぶじゃなかった!」と喚くナツモの腕を捻り上げ、そのままベッドルームへ引っ張って行く。ベッドの上にナツモを放り投げると、
「ぎーっ」という音(声というより、あれは音だ)で泣くナツモの真横に、こんなことは恐らく初めてだが、思い切り振りかぶった平手を落とした。
ばん、とマットレスが鳴った瞬間、びたっとナツモが泣き止んだ。一瞬だけ、溜飲が下がる。が、激情は収まらない。
「オマエ、いい加減にしろよ」
怒声を浴びせる。ナツモはこちらを伺うような上目遣いだ。恐らく怯えていたのではないだろうか。僕はナツモを叩いた事がまだない。その僕が、あれだけ顔面すれすれに平手打ちを繰り出したのだから、驚いて当然だろう。
「泣いて済ませようと思うなよ。もうそんな歳じゃないんだからな。誰が悪いんだ?俺か?本を選べって言ったのに、動かなかったのは誰だ?俺か?あのブロックで遊んだのは誰だ?俺か?」
ナツモは大人しく芝居がかった僕の言葉を聞いている。(何故かキレているときの方がそういう類いの台詞が自然と出て来るのが、また不思議なところだ)
効果があった?いや、その逆だ。僕がナツモを恫喝する言葉が途切れると、ナツモは再び、いや、先ほどに輪をかけて激しく泣き、ベッドの上をのたうち回り出した。下手をすると、ひきつけを起こすのではないかと心配になるほどに。
僕の、ほぼ暴力行為がショックだったのだろうか?充分にあり得る。その様子を見たアキコが心配してナツモを抱くも、身を捩らせてそれを嫌がる。
僕はふと冷静になる。これは、ちょっとマズいな。誰も幸せにならない事をまたやってしまった。しかもナツモがこれでひきつけでも起こしたら、それは俺のせいだ。そうでなくともナツモはしばらく、僕に寄っては来ないだろう。
しかし、親子関係とは実に不思議なものだ。時として説明がつかない事が起きる。
あれだけ感情的に怒鳴った後だと言うのに、ナツモは、自分が落ち着くために、僕に抱っこを求めて来たのだ。僕は求められるままに、14.4キロになったナツモを黙って抱き上げた。
あれほど怒りを爆発させた直後だというのに、ナツモの頭のニオイを嗅いで、僕は心が満たされて行くのを感じた。そして、あれほど狂ったように泣いていたナツモも、すっかり落ち着きを取り戻していた。
ナツモはむしろ、立ち直りが早かった。僕はナツモをベッドに運び、横たわらせ、背中を掻いてやる。
「おとうちゃん、どこでもやって(背中全体を掻いて、の意)」
というリクエストにも無言で応えてやる。こういうのも、飴と鞭になるのだろうか。ナツモと僕の間では、ミノリが珍しく抱っこをされずに、一人で眠ろうとしている。
ミノリ越しにナツモの背中を掻く僕の顔を、ミノリは所構わず掴んで来る。鼻の中に指を突っ込んだりもしてくる。その力が結構強く、思わず顔を背けてしまう。ミノリのこの行動は、もうすぐ眠りに落ちるときの特徴だ。
そう言えば、ナツモが赤ん坊のときも、同様のクセを持っていた。そして、ナツモとミノリは、ほぼ同時に眠りに落ちた。やはり姉妹だ。僕の横にあるナツモとミノリの寝顔を見ながら思う。
どんなに腹が立っても、寝顔が可愛いと思えるのは幸せな事だ。寝顔が可愛いのも、子供が持って生まれた能力なのかも知れない。
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