【278日目】最後の晩餐


June 28 2012, 12:05 AM by gowagowagorio

11月4日(金)

ミノリが生まれてから今日で1年経った。

月並みな感想ではあるが、早いものだ。1年前は、9ヶ月も育児休業を取ろうなどとは夢にも思っていなかった。

いや、思っていたかな?どうだっただろう?

確かに、育休自体は取ろうと思っていた。しかし、9ヶ月などという長期間の取得は会社が許してくれる訳がないだろうと思っていたのだ。だから、交渉術の基本として、まずは最大限に申請しておいて、6ヶ月取れればラッキー、落としどころは3ヶ月かな、などと考えていたような気がする。

ところが意外なほどアッサリと、最大限の9ヶ月に許可が下りた。僕自身、その事に一瞬困惑した。

え?いいの?ホントに?もっと、こう、

「池くん、家族が大事なのはわかるが、君に今9ヶ月も抜けられたら困るんだよ」

「これは就業規則にも乗ってる権利じゃないですか」

「それはそうなんだが・・・」

「6ヶ月ではいかがでしょう」

「そこを何とかもう少し短期間で・・・」

「・・・分かりました。ではせめて3ヶ月だけでも」

・・・みたいなやりとりはないの?

そんなにアッサリ認められると、僕の、社員としての価値に疑問符が付くような気がしたものである。

−−

さて、ミノリの誕生日と言っても、ミノリ本人にはそんな自覚はもちろんないから、興奮しているのはもっぱらアキコとナツモである。

アキコは起き抜けにナツモの部屋からカラフルなモールを引っ張りだして来ると、僕の誕生日の時と同じく、ダイニングテーブルの横の壁に「HAPPY 1st B-DAY MiNORi」という文字を飾った。ミノリの名前部分以外は使い回しである。

このモールが活躍するのはこれでもう3回目だから、デコレーションとしてこれをチョイスした僕のファインプレーと言ってもいいだろう。

もちろん来月のアキコの誕生日にも同じものを使うだろうが、アキコの名前には誰も使わない「K」が二つも入っているから、新たに作らねばならない。

ナツモは朝食の食卓につくなり「けーきは?」と言い放った。

「なんで朝からケーキ食べるんだよ」

「だってむにーのたんじょうびだよ?」

「ケーキは夜。まずゴハン」

「なんでー」

「今日は夜、キコちゃんも誕生パーティやるから、みんなで美味しいもの食べに行くんだよ」

そうなのだ。今日はSTK家の末っ子、キコちゃん3歳の誕生パーティとミノリ1歳の誕生パーティ、そしてついでに僕の送別会も兼ねて、シャングリラホテルのビュッフェでディナーと洒落込むことになっている。シンガポール生活最後の晩餐を誰と一緒に食べたいかと言えば、家族以外ではやはりSTK家である。

「おとうちゃん、あといっかいねたら、いなくなるんだよねー!」

ナツモがパンにヌテラを塗りながらおもむろに確認してきた。

「そうだよ」

ナツモはそれからしばらく黙ってパンを齧っていたが、再び確認してきた。

「おとうちゃん、きょうのよるかえるんでしょ?」

「・・・なんでだよ、いま明日って言ったじゃん!」

「おろ?」

おろ、じゃない。

ナツモの態度を見る限り、何回も確認するのは、僕がいなくなって寂しくなるから、という訳でもなさそうだ。今日の夜などと言い出すなんて、そんなに僕に帰ってほしいと言うのか。

ミノリの誕生日ではあるが、日中はいたって普通の金曜日だ。アキコは会社へ行き、ナツモが学校へ行き、ミノリが昼寝を貪っている間、僕はプールで最後のパドルに励む。最後だと思うと、殊更ゆっくり、感触を確かめながら水を掻く。

たまにしか行かない波乗りで、さほどテイクオフに苦労しなかったのはこのプールのお陰だ。地道な努力はやはり裏切らない。パドルだけは波乗りをする回数が少ない今の方が断然早くなったという自信がある。

15時半、学校から帰って来たナツモを入浴させ、早めにおめかしを始めさせる。ナツモもそれなりに張り切っている様子である。最近はコーディネートのセンスも人並みになってきたと見えて、親のさせたい格好とナツモが着たがる洋服が一致してきたから、着替えさせるのもラクである。

ところが、早々に準備を終えたナツモは、もうすぐ最高のディナーにありつけるというのに、冷蔵庫の中からオレオを引っ張りだして来て「これたべたい」などと言いだした。

言い出したら頑固なヤツである。

「もっちゃん、もうすぐすっごい美味しいご飯食べるから・・・」

僕はそこまで言いかけて、もっと効果的な言葉を思いついた。

「もっちゃん、これから行く所にチョコレートの滝があったの覚えてる?もっちゃんあれ好きだったでしょ。マシュマロにチョコつけて食べるやつ。アレがいっぱい食べられるんだから、そんなのしまっときな。もったいないでしょ、そんなのでお腹が膨れたら」

お菓子をもってお菓子を制す。

ナツモは僕の話を聞きながら、目の前に流れるチョコレートファウンテンの姿を想像したのだろう、いつものように「なんで!」と駄々を捏ねることもなく、素直に黙ってオレオを冷蔵庫に戻した。

しかし、チョコレートファウンテンはあまりにも魅力的だった。まだ出発までに大分時間が余っているというのに、ナツモは

「はやくいこうよーよー!はやくしないとおくれちゃうよー!」

と、しつこく僕の袖を引っ張るのだった。

シャングリラのビュッフェは相変わらずゴージャスの一言に尽きる。寿司、イタリアン、インディアン、中華、見た目も華やかな各国料理の島の中央に、悠々とそびえるのがチョコレートファウンテンである。

そして、ナツモにとってラッキーな事に、STK家がリザーブした席は、そのチョコレートファウンテンのすぐ斜め前の席だった。

席に着くや否や、コノミちゃんがナツモを連れて食事の確保に走る。珍しくナツモは一皿目にスパゲティミートソースをチョイスした。コノミちゃん達の手前、普段は食べないものでも見栄を張って好きなフリをしたという部分もあるだろうが、ぺろりと一皿平らげたところを見ると、やはりこのビュッフェのクオリティが高いのが分る。

程なくして、会社から直接アキコが駆けつけた。手にはミノリのプレゼントであるエルモのギターを持っている。簡単な操作で音楽が流れ、派手に光るそのおもちゃは、ミノリの手に渡るより先に他の子供達に奪われた。

しかし、ミノリはプレゼントよりもむしろ、テーブル上のビールのグラスに興味を示しているようだった。

「ムニーも1歳になったからねー、もう飲めるよねー」

アキコがふざけてグラスに口をつけさせると、ミノリは短い舌を懸命に伸ばしてその金色の液体を実際に舐めた。

一口舐めれば、あまりの苦さに吐き出し、ビールには二度と興味を示さなくなるだろうなと思っていたが、ミノリは吐き出すどころか、舐めた液体をじっくり味わうと、ペロリと舌なめずりをするではないか。

そればかりか、「んーんー!」と唸りながら、もっとよこせと言わんばかりにアキコが持つグラスを指差している。末恐ろしいヤツである。

ミノリはその後も、皆が次々と運んで来る色とりどりの皿の全てに目移りし、いちいち「それもよこせ」と奇声を上げ続けた。

その姿を端の席から眺めていたクミコさんはくすくすと笑いながら、「ミノちゃんて、三の線だよね」と呟いた。クミコさんにしてみれば、立派な褒め言葉らしい。実際クミコさんはミノリの大ファンである。

−−

2時間あまりで大人も子供もご馳走をたらふく押し込み、尽きない会話を楽しむ。僕にとってシンガポール最後の晩餐は最高のものになった。ビールの味を覚えたミノリにとっても、きっといい誕生日になったに違いない。

後半はずっと、念願のチョコレートファウンテンの前に陣取っていたナツモは、家に帰ってからもまだ興奮覚めやらぬ様子だった。

ミノリがようやくプレゼントのギターに興味を示したというのに、ナツモは「ちょうだい」と言ってそれをミノリから引ったくって独占する。

「こら!それはムニーのプレゼントなんだからムニーに返しなさい!」

アキコにギターを奪われた途端、ナツモは突っ伏して泣き崩れた。疲れていたのもあるだろう。まあ、いつも通りそのまま寝てしまうに違いない。

と、思っていると、ナツモが泣いたままぐい、と顔を上げた。何か訴えたそうな、強い表情である。

ナツモはキョロキョロと部屋の中を見回し、ギターの入っていた箱を見つけると、それに這い寄り、箱の側面を指差しながら主張するように叫んだ。

「だって、これ、もっちゃんもつかっていいんだよ!ここにふぉーってかいてあるから!」

ははあ、なるほど。

ナツモが指差した箇所には、「対象年齢4歳以下」の文字がプリントされていた。

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