【19日目】Sir Duke
February 26 2011, 7:14 AM by gowagowagorio
2月18日(金)
エリサはアキコのことを「マアム」と呼ぶ。そして僕は、おこがましくも「サー」である。スティービー・ワンダーの名曲、「サー・デューク」のサーだ。「イエス、サー」なんて漫画か映画でしか聞いた事がなかったが、僕がエリサを呼ぶと、エリサが言うのである。「イエス、サー」と。そもそも僕はそんな器ではないし、なんだかとても照れくさいのだが、エリサにとってはそれが当たり前なのだから仕方がない。
エリサは本当にテキパキと働いてくれる。恐らく僕もアキコも、彼女がいなかったらもっと消耗して喧嘩が絶えないかも知れない。有り難い存在である。でも、それほど仕事ができる故に、エリサにはどこか機械的な雰囲気があることも否めない。頼まれた事を完璧にこなすのが彼女の仕事。だから、彼女にとってミノリの世話もその一部に過ぎないのだと思っていた。
しかし、それは間違っていた。
今朝、アキコとナツモを送り出し、勉強部屋でデスクワークをこなしていた時である。
「ミーノーチャン!」
リビングから甲高い奇声が聞こえてくる。僕が家政婦のようにそっと壁際から様子を伺うと、そこではエリサが我々には見せたことのないような人間味溢れる笑顔でミノリをあやしていた。ああ、僕は勘違いしていた。事務的であるはずがないじゃないか。来る日も来る日も掃除洗濯炊事の繰り返し、友達も決して多いとは言えないエリサにとって、ミノリはこの上ない癒しとなっているのだと思う。エリサも、国へ帰れば3人の子供の母親なのだから。きっと、ミノリの成長に、自分の子供たちの成長を重ねてみたりすることもあるのだろう。
図らずもエリサの素顔を垣間みてしまった僕は、ますます、「サー」と呼ばれる事が照れくさくなってしまうのだった。住み込みのお手伝いさんがいると環境というのは、慣れてきたとは言え、なんとも不思議な空間である。
昨日今日と、アキコの帰りが遅い。仕事が忙しいようだ。夕方、アキコの帰りを待つ僕とナツモは、凄まじい空腹に耐えていた。いつも皆で食卓を囲むようにしているからである。待ちきれなくなった僕が「先に食べようよ」と言っても、頑固なナツモが「ダメ!もっちゃんマミーまてるもん」と許してくれない。そこへ、アキコからの入電である。
「ちょっと遅くなるから先にゴハン食べてて」
「・・・ふうん、わかった」
決してそんなつもりはないのに、声が硬く尖ってしまう。おやおや?こういう内容の電話、以前なら僕がよくしていたような。これまでと、まるで立場が逆である。仕方がないのでナツモを説き伏せ夕食を摂る。ナツモは「えー、なんでー」と腑に落ちないご様子。
「マミーお仕事忙しいんだってさ」
あれあれ?こんなセリフ、まさか自分が使うとは。もう食事が終わるという時に、ようやくアキコが帰宅する。ところがゴハンはいらないと言う。「何か食べてきたの?」と問いつめると、どうやらハッピーアワーで上司と一杯引っ掛けて来たようである。
「そう。じゃあしょうがないね」
またしても声が尖ってしまう。
「仕方ないんだよ、付き合いだから」
「わかってるって」
これまでと、まるで立場が逆である。待っている家族と言うのは孤独なものだ。パートナーの仕事が大変で帰りが遅くなってしまうことを理解する事とそれに対して寛容になれる事とはまったくの別問題である。その事を身を以て知っただけでも、育休を取った意味があると言えるだろう。
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