【248日目】Thank you for coming.
March 5 2012, 5:22 AM by gowagowagorio
10月5日(水)
多忙を極めるアキコは今朝も6時半ごろ家を出た。そこで僕も起きてしまえば良かったのだが、二度寝をしたのが失敗だった。
次に目を覚ました時には既に7時半を回っていた。
僕が天然の目覚ましとして活用していたミノリはすっかり知恵を付け、親が起きていなければ一人でリビングのエリサの元まで這って行けば朝食にありつける事を覚えてしまったから、もう目覚ましとしては機能しない。ベッドルームでボケっと寝ているのは僕とナツモだけである。
「おい!起きよう!学校に間に合わない!」
無理矢理ナツモを叩き起こすと、引きずる様にテーブルに着かせる。「早く食べな!」と急き立てるが、ナツモは朝食を口にすることなく、寝ぼけ眼でただそこにボーッと座っているだけだ。
しかしナツモは別に朝食を放棄するつもりではない。ただでさえ寝起きの悪いナツモである。頭に血が巡っていないだけの事なのだろう。それは分かっているのだが、僕は苛立って
「食べないならもうあっち行けよ!ボケっと座ってないで早く着替えてこい」
と、少々乱暴な言葉とともに掌をナツモの前で「しっしっ」という感じでヒラヒラさせた。
その瞬間、僕は、ナツモの瞳に怒りの火が灯るのをはっきりと見た。それは、初めて見る、ナツモの憎しみに満ちた目だった。その目で、僕を下から睨め付けてくる。
僕は一瞬、ドキッとして怯んだ。
人によっては、その目を見たとき、怯んだ事を認めたくないから、そして、自分の子供を制圧しないと気が済まないから、「なんだ、その目は!」と言ってしまうだろう。こうやって、DVが発生するんだろうな、と、朝から物騒な事を考えた。
もっともナツモは、怒った事でかえって頭に血が巡ったのか、急にシリアルを頬張りはじめ、
「みてみてー!ぴゅってたべたよー!ぴゅーっ!て。もっちゃんはやかった?」
と、むしろいつもよりご機嫌である。僕な内心胸を撫で下ろしながらも、子供に対して闇雲に怒鳴る事の危険性を実感した。
−−
学校から戻ったナツモが、プリキュアの便箋を使って3通の手紙を書いている。
1通はプリキュアの魅力をナツモに伝授したカレンへ。もう1通は、今日、日本から出張でやって来る、僕の友人Yへ。そして最後の一通は僕へ。
Yは元々僕と同じ会社で働いていた敏腕ストラテジックプランナーの女性である。昨年、外資系のエージェンシーへ転職したのだが、偶然にもアキコの企業を担当する事になり、今回シンガポールへ出張に来るという連絡をもらい、せっかくなのでディナーでも、という事になった。そのため、ナツモが挨拶代りに手紙を書いたと言うわけだ。
別に僕が強要した訳ではない。ナツモが自ら「おとうちゃんのおともだちにもおてがみかく」と言い出したのだ。その一点を取っても随分社交的になったと思う。
特筆すべきは、僕への手紙である。
ブルーのプリキュア(僕はそれが何代目のプリキュアで、何と言う名前かは知らない)をあしらった便箋には、ほとんど形をなさない平仮名が大胆に踊っている。一文字ずつゆっくりと追うと、それは辛うじて「おとうちゃん ありがとう」と読めた。
・・・何がありがとうなのだろう?
礼を言われる理由を考えあぐねていると、ナツモが丁寧に説明してくれた。
「あのね。このおてがみはね。『おとうちゃん、しんがぽーるにきてくれてありがとう』、ってかいたの。しんがぽーるがわからなかったから、かけなかったの」
「!」
この、ワガママで傍若無人で自己中心的な4歳児は、僕がなぜシンガポールに来たのか、そして、もうすぐシンガポールから去る事を、恐らく、しっかりと理解しているのだ。
僕は、切ない音楽を聴いた時のように、胸の奥あたりをキュッとつかまれたような感覚に包まれた。
「おとうちゃん、もうすぐジャパンに帰るんだよ」
「うん、しってるよー」
「・・・」
どうやら、勝手に感動しているのは僕だけで、ナツモには僕が帰国する事を寂しいと思っているフシはない。
複雑である。
−−
Yとの再会はなかなか波乱万丈だった。
待合せはアキコの会社のエントランスだったのだが、そもそもアキコの会社は忙しい。アキコを見れば分かる。だから、Yのミーティングはある程度長引くだろうと予測はしていた。待ちぼうけもあり得るだろうと。しかし、それは想像以上だった。
Yはナツモとミノリにも会いたがってくれたから、僕はオフィスタワーに不釣り合いな二人を連れてエントランスをウロウロした。その間にナツモは疲れて眠くなってしまったのだ。
それもそうだろう。今日はバイオリンの練習をして、その後プールで泳ぐ練習もして、相当疲れているはずだ。それでもYとの対面を楽しみに手紙まで書いたのだから、ここまで健気に元気に振舞っていた。
しかし、約束の時間から2時間後、ようやくYが現れた時はもうナツモは眠さの限界だったに違いない。タクシーに乗り込むとナツモは途端にウトウトし始めた。だから僕とアキコは、ミノリとともに我が家でナツモをドロップし、大人だけで食事に行こうと考えた。
しかし、コンドで自分だけが降ろされるのだと気付いたナツモは猛り狂った。それはちょっと手に負えないぐらいだった。そこで、アキコがナツモを強引に部屋まで連れて帰り、寝かしつけてから後ほどレストランで合流する事にした。目的地であるタイレストラン、ジム・トンプソンへの道のりも険しかった。
一度行った事があるにも拘らず、僕が場所を完全に見失い、デンプシーの敷地内を30分ほど彷徨う羽目になった。
極めつけに、ようやくレストランのテーブルに腰を落ち着けた途端、Yが、アイフォンをタクシーの中に置き去りにして来た事に気がついた。
そう言えば、アキコはどうなっただろう。別れてから既に随分時間が経っている。合流できるかどうか、様子を聞こうとアキコに電話をかける。
「もしもし」
「もしもし、どう?」
聞くまでもなく、受話器越しにナツモの泣き喚く声が僕の耳に届いた。
「いぎだがっだ!おどうぢゃんどいっっじょに!」
ナツモのその切ない気持ちはよく理解できる。気持ちは行きたいが、身体がついて来ないのだろう。その鬱憤をアキコにぶつけているのだ。
「・・・聞こえる?」
「うん」
「まだ落ち着かないから、先に始めてて」
「そうか、わかった」
今夜アキコが合流するのは無理かもしれないな。僕はそう考えていた。
しかし、それから約20分後、アキコはジム・トンプソンへ一人でやって来た。
「よく来れたね」
驚く僕に、アキコが手の内を語った。どうやら機転を利かせたらしい。
ナツモは、ダメと言われるとわかっていながら「いきたい」と喚いていた。そして「ダメ」と言われたらもっと泣いてやると思っていたに違いない。だが、アキコはナツモの意表をついて「じゃ、今から行こっか」と言った。するとナツモはキョトンとし、泣けなくなって困ってしまったらしい。実際はもう疲れて動けなかったからだ。
「ほら、早く行こう!行かないの?」
アキコに急かされ困惑したまま、ナツモは寝入ってしまったそうだ。
各自に色々あり、食事にありついた時にはもう22時近かったが、それでも楽しい時を過ごした。
日本から近いようで遠い、赤道直下のこの国で日本からの友人と再会を果たすのは、やっぱりいいものだ。
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