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Nascita Ⅱ(三女の場合)
S山産婦人科の病室は恐ろしく綺麗だった。しかも贅沢な個室。
外回転術は下半身麻酔を施すため、晶子は一晩入院する必要がある。まずはその部屋へ通されたのである。
そもそもこの産院に決めたのは、無痛分娩ができる数少ない産院だからなのだが、「病室が綺麗!メシが旨い!」というのも妻の中では大きなポイントだった。
その期待に大いに応えられる病室である。これは食事もさぞかしイケてるに違いない。なんでも、この産婦人科をググって画像検索すると、豪勢な食事の写真ばかりが並ぶという。
確かに、さっき通ったお食事ワゴンに乗ってた食器も、相当お洒落だったもんな。
そんな想いを胸にガウンに着替える妻。病室のソファに腰を落ち着け、それを見守りながら昼メシのピザに想いを馳せる僕。穏やかな朝だった。
ソファの横にある窓から外へ目を向けると、勢いを増した雪が、一面を純白の世界に染め始めていた。
「それじゃ、池さん行きましょうか」
ほどなくして、看護師が声をかけにきた。
「もう、このまま?」
「はい、今からまずお背中から麻酔を入れまして、効いてくるまで30分ぐらいかかりますけど麻酔が効いたらすぐに」
「わかりました。それじゃ、がんばって」
僕は、実にライトに妻を送り出した。
今9時半か。麻酔で30分、そっから外回転術がまあ10分として、その後部屋に戻って来て医師の説明を聞いたりしたとしても1時間半後には病院を出られるだろう。僕はソファに腰を落ち着けたまま、iPhoneをいじり、それに飽きると今度はiPadをいじり、それにも飽きるとノートにラクガキを始めた。
病室の壁にかかったテレビからは、普段観る事のない午前中のワイドショーの声が聞こえて来る。なんでも島耕作の作者が「イクメンは出世しない」と発言したとかで、それをめぐってタレントたちがどうでもよい議論を展開している。一つだけ確かなのは、この作者のイクメンの定義付けは、世間の感覚から完全にズレてしまっているなということだった。「子供の誕生日のために仕事を放り出して家に帰る男」は別にイクメンではないよな。
ふと時計を見ると11時を過ぎていた。
あれ?予定ではもうピザ屋に向かって・・・いや、会社に向かっている時間なはず。まあ、施術が2、3分で終わるというのは大げさ過ぎか。多少時間がかかるってことはあるわな。
あれだけ逆子体操に耐え抜いたミミオである。百戦錬磨の先生の手だって煩わすことは充分に考えられる。
この時点でもまだ、僕は外回転術の成功をこれっぽっちも疑ってはいなかった。
しかし、妻は帰って来ないのである。時計はとうとう12時を回った。
まあいいか、ピザを食べに行く頃にはちょうどピークタイムから外れて、ゆっくりできるな・・・
12時半。
もうピザじゃなくてもいいから何か食べたい・・・
13時。
・・・これって、もしかして・・・
ようやくそう思い始めると同時に、病室のドアが開いた。
看護師が入ってきた、その顔を見た瞬間なんとなく外回転術が失敗だったことを悟った。が、形式上、聞く。
「どうでした?」
「だめだったんです・・・」
ベテラン看護師は絶妙に申し訳なさそうな顔を作りつつ、続けて言った。
「まもなく、先生から詳しいお話がありますから。奥様はまだ、麻酔が効いているんで下のお部屋で休んでますけど、旦那さまに会いたいとのことなので行きましょう」
詳しい話?ああ、そうか、タコ入道(名医です)的にはハンドパワーが発揮できなかった理由をきっちり弁明しておかないとプライドが許さないだろうからな。
まあ、逆子のままだと無痛分娩はできずに帝王切開になるけど、まだあと3週間あるし。明日からまた逆子体操に励めば直るかもしれないし。妻に今度こそ邪念を振り払って勤しめよと伝えよう。それより今すぐ病院を出ればまだピザ食えるな。確か14時半までに入店すれば。
そんなことを考えながら、僕は看護師に案内されて妻が寝ている部屋へ入った。
「ダメだったんだってね」
「うん」
「しょうがないね」
「そうだねー」
「また逆子体操やったらいいよ(ただしまじめにな!)」
「・・・どうしよっかなー」
「・・・ええ!?」
と、ここでタコ入道(名医です)が入室してきた。
「えーと、ダメでした」
「みたいですね」と僕。
「何が原因だったんですか?」と妻。
「んー、ちょっとわかんない」とタコ入道(名医ですよね?)
「ははあ・・・(成功率7割じゃねーのかよ!)」
「それでね」とタコ入道は続けた。
これからが本題だといった口調だった。
「胎児の心拍がちょっと高いんですよね」
確かに、モニターの数値を見るとミミオの心拍は170台から180台を行ったりきたりしている。
「通常は160台前半ぐらいなんですよ。これだと、赤ちゃんはずっとマラソンしてるみたいな感じでね。これは何かしらストレスがかかってる証拠です。もしかしたら胎盤が機能してないかもしれない」
「・・・と、おっしゃいますと?」と、僕。
「このままだと赤ちゃん死んじゃうんでね」
「・・・と、おっしゃいますと?」と、妻。
「もう外に出して育てた方がいいという判断をするかもしれない」
「・・・と、おっしゃいますと?」と、もう一度妻。
「切って出す、ってことです」
******
ここで時は昨年の秋に遡る。
妻は渋谷区役所保育科で職員と激論を交わしていた。
渋谷区の規定では、児童は生後57日経っていないと保育園に入園できない。この時点でミミオの予定日は2月20日。これだとハナから4月の入園はムリと言う事になる。
ならば5月入園に申し込めるかと言うと、5月入園に並べるのは、4月入園に申し込んだけれども落選した児童だけだという。ミミオが4月入園に申し込む資格を得るには、2月4日に生まれている必要がある計算になる。
世の中が4月〜3月の年度区切りで動く中、これは2月3月生まれの子供には圧倒的に不利な制度なのだ。
この奇妙なルールに妻がキレた。
「それじゃこの子はいつになったら保育園に入れるかわからないじゃないですか!ハラ切って出せってことですかっ!!!」
切って出せってことですかっ!!……
切って出せってことですかっ!!……
切って出せってことですかっ!!(リフレイン)——
******
——「切って出す、ってことです」
イヒーッ!?
今日は1月30日。タコ入道の一言を聞いた時の妻と僕は、カツオくんにムチャ振りされたマスオさんのような表情だったに違いない。
ピザのことは消し飛んだ。っていうか、心の準備がまったくできていない!ミミオを迎え入れる準備(ベッドやら服やら)もまったくできていない!
明らかに狼狽える夫婦を意にも介さずタコ入道は続ける。
「14時ごろには判断しましょう」
「・・・判断してからどれぐらいでヤルんですか?」
「すぐですよ、すぐ。ぐずぐずしてられないんでね」
あと30分!?
・・・とりあえずオレ、牛丼食って来る!
次回、緊迫の最終回!
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