【213日目】感染らんようにセントーサ


October 4 2011, 10:48 PM by gowagowagorio

8月31日(水)

ニーアンシティの27階。
スギノファミリークリニックの待合室のほぼ中央には、巨大な水槽が配置されており、色とりどりの熱帯魚が活き活きと泳いでいる。それらをぼけっと眺めていると、看護士がナツモにチュッパチャップスを持って来てくれた。なかなかアットホームな病院である。

体温が依然として38℃台後半のナツモは当然学校を休み、朝イチで病院に連れて来られた。この病院は日本語が通じると聞いていたので日本人スタッフが常駐しているのかと思いきや、そういうことではないらしい。

スタッフは挨拶のみ日本語で行うものの、それ以降の対応はすべて英語だ。それでも待合室には僕ら以外に一組の日本人の母娘連れと、もう一人の日本人らしき中年の女性がいたから、やはり日本人向けが売りの病院なのだろう。

15分ほど座っていると、ナツモの名前を呼ばれた。診察室で待っていたのは、50台と思しき柔和な微笑みをたたえた女医だ。日本人相手を売りにしているだけあり、英語と日本語の入り交じった言葉でインフォームドコンセントを行う。

ナツモのクラスメイト数人がインフルエンザに罹った旨を伝えると、女医は

「やっぱりね、インフルエンザの顔をしているわ」

と、占い師のような受け答えをするのだった。

その後、正式な検査を行い、結果が出るまで15分、再び待合室で熱帯魚を眺めながら時間を潰す。

だが、15分経たずとも、そして診察室に入らずとも、結果が分かってしまった。待合室にいる我々の元へ、突然スタッフがナツモ用にマスクを持って現れたのである。香港A型。強い陽性反応。抗ウィルス剤および解熱剤を受け取って帰宅する。

ナツモは熱があると二重が大きく深くなり、顔全体がとろんとした印象になる。見ようによっては、邪気がない分、今の顔の方が、おしとやかな可愛い子に見える。

熱を測ると39.1℃。数字が示す程苦しがる様子はないが、さすがのナツモもしおらしく自らベッドに横たわっている。

「おとうちゃん、おはながでないの」

どうやら鼻が詰まって息苦しいようだ。鼻翼の真横のツボを軽く押してやるとそれが心地良いようで、程なくナツモは寝息を立て始めた。

ただ、眠りは浅い。

昼食後からトロトロと5時間程も寝たり起きたりを繰り返す。時折水を所望し、「おはなやって」とマッサージをせがんで来るため、付きっきりの看病で、僕もほぼ寝たきり同然である。

「もっちゃん、明日も学校お休みだね、行きたいだろうけど」

「がっこうにいくと、せんせいにうつったり、おともだちにうつったりして、こまるから?」

「その通りだよ」

ナツモは自分が置かれた立場をよく理解しているようだ。いつもなら自らミノリに覆い被さって行くくせに、今日はミノリがベッドルームに入って来ると「むにーがこっちにきちゃうよ」と子供らしからぬ心配をしている。

僕は自分を守るためにマスクをして看病していたのだが、ナツモはその僕に対しても

「おとうちゃん、おはなかみたいときは、もっちゃんむこうむいててあげるからね」

と声をかけてきた。つまり、僕がマスクを外す時はウィルスを飛ばさないように反対側を向いておくと言っているのだ。

健気というよりも、自分が現在特殊な存在であることが満更でもないらしく、他人にウィルスを感染さない事こそが今の自分の役目、という使命感に燃えているといった感じである。

しかし、その使命感は早く自分の身体を快復させる、という方向には向かわないようだ。

夕食後、ナツモは薬を飲もうとしない。昼間には同じ薬を比較的とあっさり飲んだ。しかし、その薬はナツモの予想以上に不味かったのだろう。

「もっちゃん、これ飲んで早く元気になろう。元気にならないとプールにも入れないぞ。そんなのイヤだろ?」

相手が病人だから、僕もなるべく猫撫で声で言い含める。それでもナツモは頑なに口を閉じたままだ。仕方なく僕はナツモの背後に回ると、後ろから羽交い締めに押さえつけ、毒々しい真っ赤なシロップが入ったスプーンをナツモの鼻先に持っていく。

「ほら!こんなにちょっとだからゴクって飲んじゃいな!そしたらお茶あげるから!」

「イーヤーだ!」

ナツモが身を捩った反動で、スプーンにすりきり一杯入っていた薬がベッドのシーツにこぼれて真っ赤な染みを作る。いくら病人相手でもさすがにイライラが募ってくる。

「カレンもコトコもみんな飲んでんだぞ!なんでもっちゃんだけ飲めないんだ?」

「しらない。のみたくない」

ここで薬を飲めない劣等感に訴えてみたところで、ナツモはそんな事に劣等感など感じないらしく、悔しがる様子も見せない。

ならば、選択肢を与えよう。

「よし、今飲んだら、アイスあげる。そしたらすぐ口の中甘くなるでしょ?もし、今飲まかったら、マミーが帰ってきてから二人で無理矢理押さえつけて飲ませて、しかもアイスはなしだぞ。さあ、どっち?」

さあどっち、もないだろうと言うぐらい判り易い選択肢だが、ナツモは僕を伺うようにしばらく思案し、やがて意を決したように、コクリと頷いた。

−−

スギノファミリークリニックは一体どんな薬を処方したのだろう?ナツモはようやく薬を飲んだと思った直後から、やけに元気になってきた。顔色も悪くない。検温すると37.2℃しかない。いくら即効性のある薬だとしても、これは効き過ぎではないだろうか。まあ、恐らく一時的なもので、夜中にまた上昇するだろうとは思うけれども。

いつもより早めにナツモを寝かしつけていると、アキコが帰宅した。

「どう?」

「うん、薬が効いてるみたいで今は7℃ちょっとしか熱ないよ。鼻が詰まって苦しいみたいで、ツボ押してあげてる」

「そうか。もっちゃん、苦しい?」

アキコはマスクも付けず、感染の危険も顧みないでナツモの横に寄り添うと、僕の代わりにナツモの鼻のツボをマッサージし始めた。今のアキコは、病気の時は優しかったとナツモの記憶に残るであろう母親の顔である。

僕はアキコに看病のバトンを渡すと、ミノリのミルクを作りにキッチンへ向かった。

ところが、哺乳瓶に熱湯を注いでいると、突然ベッドルームから二人の言い争う声が聞こえてきた。

「・・・じゃあ、どこ?ここ?こう?」

「ちーがーう!おとうちゃんがせっかくやったのに、おはなつまっちゃったじゃん!」

「じゃあ、もういい!」

何が起こっているかは大体想像が付く。

やがて、不貞腐れ口を尖らせたのアキコがベッドルームから出てきた。

「おとうちゃんのマッサージじゃなきゃダメだって」

ご指名頂けるのはありがたい事だが、せっかくの母親の愛を無下にするナツモには困ったものである。

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