【82日目】Evil Eyes
April 28 2011, 6:26 AM by gowagowagorio
4月22日(金)
ココナッツの実を叩いたような鈍い音が響いた。
3秒ほどの間を置いて、甲高い泣き声が空気を切り裂く。
そこでようやく、先ほど聞いた音の原因に思い至る。僕は、とある事情でバスルームの便座から離れられない。アキコは?アキコは何をやっているんだ?さっきまでミノリを抱いていたのじゃないのか?
「ちょっと!ミノリが落ちたんじゃない?」
アキコが何処に居ても聞こえるように、あらん限りの声で叫ぶ。ミノリは放置され、どういう体勢かは判らないが、寝返りを2回、3回繰り返し、はずみで「ベッド」という断崖絶壁からフローリングの床へ滑落したのだ。
「えええっ?!ちょっと大丈夫ミノリ!」
僕が叫ぶまでもなく、突然響き渡ったミノリの絶叫に、アキコが部屋に駆け込んで来た。
「ごめんごめんごめん!」
壁の向こうでアキコがミノリを抱き上げる気配がする。
「ミノリがべっどからおちたよー!」
嬉々とした声がそれに続く。どうやらアキコにくっついてナツモも部屋に駆け込んで来たらしい。
「なんでほっといたままその場を離れるんだよ!」
僕は事後処理を完了しつつ声を荒げる。
「もう寝返りするの分かってるんだからさ!」
「・・・ごめん」
いつもは強気なアキコもここは恐縮しきりである。バスルームを飛び出し、アキコに抱かれて未だ泣き止まないミノリを見ると、右眉の少し上方に赤く丸い斑が確認できる。恐らくうつ伏せの状態でダイブしたのだろう。ミノリのサイズから考えると、なかなかの高さと言える。
「でも、ベッドの真ん中に置いておいたんだけどなあ・・・」
首を捻るアキコ。
「真ん中に置いたってダメでしょ。もうかなり動くんだから。何やってたの?」
ここぞとばかりにアキコを責め立てる僕。もちろん、ミノリの身を案じるが故の言動だ。
「ちょっとなら平気かなと思って。これからは絶対下に置かないとだめだね」
「そりゃそうだよ」
生まれて初めての絶叫体験を済ませたミノリはひとしきり泣くと、ようやく落ち着きを取り戻した。どうやら額をぶつけたものの、大事には至っていないようだ。衝撃を受けたのが額の最も固い部分だった事が幸いしたのだろう。アキコともどもひとまず安心し、この件はこれで終わった、かのうように見えていた。この時点では。
本日はイースター前のグッドフライデーということで、国民の休日だ。アキコの会社もナツモの学校も、僕のベルリッツも休みである。せっかくの休日なので、デンプシーにある人気のカフェ、PSカフェでランチでもと思い立ち、それぞれ外出の準備に勤しんでいた。
アキコはメイク、僕はミノリの外出セット(オムツやらお尻拭きやら着替えやら)の用意、ナツモはハイテンションで役に立たないおもちゃも用意、ミノリはベビーベッドの中で放っておかれている、という状況である。
それは、アキコがひとまずメイクを終わらせた時だった。アキコは何を思ったか、ベッドの上に自ら仰向けに転がった。深い自責の念からなのか、本人曰く、「現場検証をしようとした」のだ。つまり、ミノリがどのようにベッドの上を移動し、落下するに至ったのかを、身を以て体感しようという趣旨だったらしい。
その時僕は目撃していた。
ミノリの氷のような視線がベビーベッドからアキコに注がれているのを。次の瞬間だった。超ハイテンションで必要のないおもちゃを準備していたナツモが、必要のないダイブをベッドに向かって敢行した。ベッドの際へ向かって転がろうとしていたアキコの頬骨に、ナツモの頭蓋骨がカウンターでめり込んだ。スパナをアスファルトの地面に叩き付けるような、鈍い音が響き渡る。
「いっ……」
声も無く、両手で顔を覆って悶絶するアキコ。10秒ほど経ってようやく顔から両手を外したアキコの右目の下が、みるみるうちに、壮絶な打ち合いを続けたボクサーのように青紫に腫れ上がった。
「だ、大丈夫か?!」
「大丈夫ではない……もっちゃん、痛いよ……」
「ホラもっちゃん、ごめんなさいは?」
「でも、もっちゃんもいたかった……」
僕はナツモを嗜めつつも、別の事を考えていた。誰も、その因果関係は証明できない。しかし、僕はミノリの、あの目を思い出していたのだ。静かにアキコを射竦めていた冷たい視線を。もしかして、ミノリはサードアイを開いているのではないか?「三つ目がとおる」の写楽くんのように、ナツモを操ってベッドにダイブさせたのではないか?アキコに、自分と同じ、いや、それ以上の痛みを味わわせるために。
僕は戦慄を覚えた。アキコも同様だったに違いない。そしてミノリは、アキコが悶絶する様子を見届けると、まるで本懐を遂げたとでも言いたげに、穏やかに眠るのだった。もちろん、その因果関係は誰にも証明できない。
ランチはPSカフェでラザニアとクロックマダム、夜はSTK家を誘い、UEスクウェア内に店を構える「牛角」で焼き肉。今日は豪勢な食生活を過ごした。ちなみにこちらの牛角は、日本とは違い、どちらかと言うと高級指向で売っている。そして味も格段に良い。
さて、牛角の帰り、ロバートソンウォークのパーキングに停めてあるSTK家の車まで皆で歩く。ナツモは僕と手を繋いで歩いていたが、突然その手を振りほどき、数メートル前を歩くカズマに接近すると、何も言わずにスッとその手を取った。これが15年後に見た光景だとしたら、僕は心穏やかではなかっただろう。しかし、とりあえず今は微笑ましくそれを見つめている。
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