【262日目】プリンセスに守られて
April 22 2012, 3:20 AM by gowagowagorio
10月19日(水)
僕とナツモが3日連続のツーリングに出かけようとした時には既に17時半を回っていた。
もちろん、本当はもっと早く出かけたかったが、いけずなシンガポールの空は、まるでわざとそうしているかのように、ナツモが帰宅した15時半過ぎから尋常ではない暗さになり、今すぐ行きたいというナツモを制して様子をみているうちに、案の定バケツをひっくり返したような豪雨となったのである。
今は雨期だけに、夜までに雨が上がる確証はなかったが、僕は
「雨があがったら、自転車乗りに行こう。待ってる間、プリキュア描いてあげる」
とナツモをなだめた。これにはナツモも乗り気で、さっそく描いてほしいプリキュアの元画と、紙、ピンクの色鉛筆を僕の手元に運んで来た。描いてほしいのは「キュア・ブロッサム」らしい。
親の贔屓目に見て、目が大きく描かれ、そしてやや離してレイアウトされているそのキャラクターは、ナツモに似ているような気がした。
自分で描いてみるとよく判るが、プリキュアというのは、萌えキャラと紙一重だ。身体のラインを極力平坦にデザインすることで、萌えとの違いを主張している、そんな感じである。
まあ、ナツモは夏に萌えるだからお似合いか、と愚にもつかない事を考えながら、黙々と鉛筆を動かす。
10分後、我ながら上手く描けたのではないか、というアウトラインだけのキュアブロッサムがナツモの前に差し出された。
ナツモはその画に、自ら色を入れて仕上げて行く。実は、最初は僕が色を入れていたのだが、ナツモはどうも、僕が奇麗と考えるような薄い塗り方では満足できないらしい。
「もっとこくしてよー」
ナツモは横から口を出しているうちに、我慢できなくなって僕から色鉛筆を取り上げたのだ。
「おとうちゃん、けっこう上手じゃない?」
「うん。まみーはあんまりじょうずじゃないよね」
「そう?マミーも結構上手だったよ」
我が家の気難しいアートディレクターに手放しで認められて上機嫌になった頃、ようやく雨が上がった。
「どこ行く?」
「んー、めいじや」
「・・・」
答えは聞く前から分かっていたから、既に自転車はその方角を目指して走り出している。雨上がりだからスリップしないよう、慎重に進む。
ナツモは先ほど描いたプリキュアを自ら切り抜いたものや、他のプリキュアのシールなどをリュックに詰め込んで背負っている。そんなもの、一度も開く事はないのだから置いて来た方が本人も楽だと思うが、きっとナツモに取っては「何か持って行くものがある」事自体が重要なのだろう。
グレートワールドシティを通過しつつ、背後のナツモに声をかける。
「もっちゃん、明治屋好きだねー」
「・・・」
返事がない。車の騒音で僕の声が届いていないのだろう。
「もっちゃんさー!明治屋好きだよねー!」
「・・・」
しかし、声を大きくしてもやはり返事がなかった。
まさか、こいつは・・・
自転車を走らせながら素早く後ろを振り向くと、案の定、ナツモはチャイルドシートで揺られながら居眠りを始めていた。
ナツモが船を漕ぐたびに、プリンセスのヘルメットが僕の背中を叩く。まだ出発してから5分と経っていない。お気楽なものである。
結局、ナツモはそのまま明治屋に到着するまでずっと寝ていた。
「もっちゃん、明治屋着いたよ!降りる?」
僕は自転車を停めてナツモを揺すった。ナツモは眩しそうに目を少しだけ開けると、首を横に振った。
「え?降りないの?」
「かるぴすおとうちゃんがかうのー」
「え?ここでまってるの?」
よほど眠かったのだろう。ナツモはコクコクと頷くと再び眠ってしまった。僕はそのまま引き返そうとも思ったが、わざわざここまで来た事の意味を作りたくて、パンとプリン、そして一瞬悩んだがカルピスウォーターを買いに走り、急いで自転車へ戻った。
ナツモは目覚めて通りを行き交う車をぼーっと眺めていた。昨日までは気がつかなかったが、僕が毎回自転車を停めているのは、どうやらキャバクラ的な店舗の前の歩道だったらしい。
今日は時間が遅いので既に開店準備が始まり、黒ずくめの男や、派手な女達がプリンセスのヘルメットをかぶったナツモを乗せた自転車の後ろで談笑している。なかなかシュールな画である。
自転車に近づく僕に気がついたナツモが突然質問してきた。
「おとうちゃん、どらえもんみたの?」
「見てないよ。もっちゃんが待ってるから」
「そう」
ナツモはそれを聞くと、安心したかのように再び居眠りをはじめた。このチャイルドシートの座り心地がよほどいいのだろう。ナツモは帰路もずっと眠りっぱなしである。本当にこのシートを搭載してよかったなと思う。
時間が遅かったこともあり、僕はふと思いついてアキコを迎えにオーチャードまで自転車を走らせた。道すがら電話を入れると、案の定、アキコはちょうど仕事がハネたところだった。
アイオンに自転車を止めると、ようやくナツモが目覚めた。程なくして、地下鉄を降りたアキコが姿を現した。
外でアキコに会えたのが嬉しかったのだろう、ナツモがアキコに自転車を漕いでとせがむ。アキコも快く引き受ける。
僕は少々心配だった。
自転車は僕には小さすぎるが、サドルだけは目一杯高くしてある。アキコが自転車に乗るのはかなり久しぶりだという。それに加えて14kgの積載量である。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
アキコは僕の心配をよそに軽快に走り出した。
そうか、考えてみればアキコも高校時代、僕と同じ場所から同じ学校へ、あのアップダウンの激しい道のりを自転車通学していた。自転車歴は長いのだ。そう心配することもないか。
ナツモも、いつもは仕事で遅い母親が漕いでくれる自転車で帰宅できる事が随分と嬉しそうである。
−−
悲劇は気を抜いた時に起きる物だ。それは、最後の最後、もうコンドに到着した時だった。
ゆっくりと自転車を走らせるアキコの数十メートル後ろを、僕はアキコの荷物を持って歩いていた。アキコ達が敷地内に入るのが見える。
おそらく、エントランスのあたりに自転車を停めて僕の事を待っているだろう、そんな風に予測しながら、20秒ほど遅れて僕も敷地へ足を踏み入れようとした。
エントランス前のロータリーには、真ん中に大きな植樹があるから、僕の視界は遮られている。その植樹のちょうど向こう側 から、がしゃっ、という乾いた衝撃音が響いて来た。その音にナツモの悲鳴に近い鳴き声が重なる。
その瞬間、ロータリーを回り込むように駆け出した僕の目に飛び込んで来たのは、陽が沈み暗くなったエントランス前のアスファルトに横倒しになった自転車とナツモだった。
その横にアキコが呆然と腰を屈めているのが見える。オロオロする、と言うのは、今のアキコのような状態を言うのだろう。僕が駆けつけるまでの約10秒間、アキコは一切言葉を発する事がなかった。
「おいおい、大丈夫か!今のは痛かっただろ!」
僕は急いで自転車を起き上がらせる。
はっと我に返ったアキコは、そこでようやくナツモに声をかける。
「大丈夫?どっか痛い?足?腕?頭?」
ナツモは泣きながら、それでも正確に、自分の側頭部を指差した。
「頭ぶつけたの?」
コクリと頷くナツモ。
「ヘルメットかぶってて、本当によかったよー」
そうなのだ。一昨日買ったばかりの29ドルのプリンセスが、早速ナツモを守ってくれた。これをかぶっていなかったら、本当に大変だったかも知れない。ナツモのこの泣き方、応答のしかたなら、大丈夫そうである。骨が折れたりはしていない。見たところ擦り傷もない。チャイルドシートの安全性が証明されたとも言える。
アキコ曰く、ロータリーを使ってグルグル回りつつ僕を待とうとしたところ、
「もっちゃんが『ちがう、こっちこっち!』って小回りさせるから」
バランスを失い、足で支えようにも後部が重すぎて耐えきれず転倒してしまったという。幸いアキコにも怪我はなかった。
自転車置き場の灯りでナツモのヘルメットを見る。右の側頭部、眠り姫とシンデレラが並んでいるあたりにアスファルトで削られた傷ができていた。プリンセスが身を呈して守ってくれるなんて、本当に物語のようである。
−−
その後、何故かナツモが躁状態に突入した。夕食後トイレへ大用を足しに行ったナツモが叫ぶ。
「もっちゃんのうんち、おはなみたいだよー!みてみてー!」
仕方なく見に行くと、それは花と言うより、松ぼっくりみたいなブツだった。食物繊維が足りないのである。
ナツモはそれだけでなく、突然プリキュアの真似を始めた。
「といれにさく、ぶりぶりのはな!きゅあ、うんち!」
・・・アホである。やはり打ち所が悪かったか。
いや、いつもは不機嫌な時間帯にご機嫌なままだから、むしろ打ち所が良かったのかも知れない。
ナツモはその後も躁状態のまま、寝る直前に(時間が遅すぎて)本を読んでもらえず少し愚図ったものの、久しぶりに僕のお腹によじ登ってきて、そのままそこで眠ってしまった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?