死が迫った人への面会について

SNSで亡くなり際に会いに行くことについての意見を見ていて思ったこと。

普段、ちょっと会わない人が死に目に会いに来ることを、近しい人はあまりよく思わないのかもしれない。「元気なときにもっと会いに来ればよかったのに。」

でも、元気なときは「いつでも会える」と先延ばしにしがち。看取りをする必要の是非はともかく、生きているうちに会っておきたいというのは人情。そばにいる家族にとっては、意識がなくなってしまってからでは意味がない、とか、見せられる状況ではない、とか思うのかもしれないけれど、いきなり「もう会えない」という喪失感はかなりのものだ。特に元気なころの記憶しかないと、心に空く穴はさらに大きい。

近しい人間は自分の気持ちが重くなりがちだ。そしてしばらく縁遠かった人の気持ちを軽んじがちだ。しかし、である。自分の知らないところで本人と面会に来る人間の関係を本当に知っているだろうか。自分が近しくなる前にずっと心通わせてきた関係だったかもしれない。そういった人間が生きて同じ世界にいる、と、もう会えない、の差はものすごく大きい。そういった関係の人がたとえ10年ぶりだったとしても会いに来たい、話せなくなったとしてもひと目あっておきたい、という気持ちは尊重されるべきだと思う。相手の自己満足のためと思うともやもやするものがあるかもしれないが、そこは人助けと思うしかない。決して死に行く人のためではない。

そんなことを言っている私だが、母ががんの末期で在宅介護をしていて、本当に疲れきったときに、母の叔母(私にとっては大叔母)が何の連絡もなしにいきなり会いに来たときは本当に腹が立った。「連絡ぐらい入れろよ」と心で悪態をつきつつ(本当に余裕なんてなかったのだ)、居間に据え置いた介護ベッドに眠る母の元へ案内した。母は大叔母にとって妹のような存在だったのだろう。しばらく母の顔を見て、大叔母は帰っていった。私はずっといらいらしていたが、顔には出さず(態度に出ていたかもしれないが)見送った。

母はその夜亡くなった。夕飯時のことだ。

後から思うと、虫の知らせというものがあったのかもしれない。何度考えても大叔母の訪問は迷惑だったが、大叔母本人のためには本当に必要でよかったことなのだろう。自分なりに納得がいく。

去年、従兄弟が亡くなった。まだまだ普通なら亡くなる年齢ではない。病気である。ある日家族で昼食を摂っていると、亡くなる従兄弟の弟から彼が危篤であるという知らせが入った。子供のころからの付き合いで、よく会うというわけではなかったが、会えば楽しいときを過ごせる仲だった。毎年正月に親戚が顔を合わせていたが、彼は吉本や阪神のファンだったのでいつしかまとまった休みはそういった趣味に費やすようになっていたので、しばらく顔を合わせていなかった。それがいきなり危篤、もう意識がない、と言われてはいそうですか、で済ます気にもなれなかった。

伯父はもう意識がない、見せられる状態ではないと、会いに来ないようにやんわりと断ってきたが、1日もったあと、やっぱり会っておこうと仕事帰りに会いに行った。他の従姉妹に会いに行くことを告げると、彼女も行くと合流した。病院に着くと従兄弟の弟のほうが、しなびたなすびのような顔で経過や状況を説明してくれた。

会った従兄弟は、横たわり人工呼吸器の動きに合わせて胸を上下させていた。モニターの動きがまだ心臓が動いていることを示していた。伯父や従兄弟(弟)が血圧の緩やかな下降状況を話す。だいぶ、気持ちが整理してきているのか今後の話(葬儀や墓など)の話をしている。伯母方の親戚も来ていた。

経験から、迷惑に思われているかもとは思ったが、やっぱり会いに行ってよかった。記憶の中の笑顔の従兄弟と死にゆく彼とが線で繋がり、経過の説明を聞いて現状に納得し、楽しかった思い出とこれから更新されることのない寂しさで心の空白を埋めた気分だった。

とにかく、いきなり存在しなくなるのはきつい。あって当然と思っているものがなくなってしまっているのを納得するのは難しい。個人差はあるかもしれないが、あの喪失感は本当に何度遭遇しても慣れない。

だから、私は会いたいと言う人は会うことを拒まない。ただし、その後のことは自己責任で。

一番近しい人の辛さはわかりやすい。でも、他の人の辛さは流されていいものか? 近しい人に遠慮して隠すべきなのか? 配慮しろとまでは言わないけれど、尊重はして欲しいと願う。

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