死に向かう人

何人か周囲でがんで亡くなっている人がいる。それ以外でも亡くなっている人がいる。

母の友人。母。父。従兄弟。

それ以外でも亡くなっている人たちがいる。

祖父母。友人。

薬剤師として担当した中にがんで亡くなった人はもちろん。普通に病気で亡くなった人、年齢から来る衰えで死んでいった人たち。

死に対してそれほど遠く感じない方だと思う。

子供のころ、従兄弟が骨肉腫を患ったときに初めて死を意識した。2歳しか違わない従兄弟が足を切断したこと、転移の可能性があること、遠い世界のことがいきなり現実として迫ってきて怖かった。

祖母は認知症が入っていたが、ひざや腰が悪かったためほぼベッドの上で過ごしていた。介護は祖父がほとんど担っていて、週に3日ほど数時間ヘルパーさんが来ていた。両親は共稼ぎで介護にはほとんど携わっていなかったが、父がヘルパーの手配や歩けるときに夜間外へ出て行ってしまうのを防ぐために仕事の資料を読んで起きていることで介護をしている気分になっていたことが今も腹立たしい。話がそれた。祖母がなくなる前の晩、風邪気味で肩で息をしている苦しそうな祖母が寝ている介護ベッドの横で、家族みんなが夕食を食べている記憶が今も残っている。学生だった私は「祖母がこんなに苦しそうなのになんで普通に食事しているんだろう」と思った。あれは諦めだったのか見切りだったのか今もわからない。その夜、救急車を呼び運ばれた病院で祖母は亡くなった。

祖父がなくなったのは、90歳のときだ。とにかくしっかりした人で、耳は遠くなっていて注意力は少し落ちていたが、自分のことは最後まで自分でやる人だった。働かざるもの食うべからずを体現していたような人で、外で仕事をすることが厳しくなると掃除、洗濯、祖母の介護などを誰に言われるでもなくこなしていた。明治生まれの短気な爺さんで、ちょっとしたことで怒鳴る怖い人だったが、仕事や自分がやらなくてはならにことに関しては、筋の通った人だった。今も私が仕事をする上で手本としているのがこの爺さんだ。70くらいのときに腹部大動脈瘤を破裂させて、半日がかり、何十人を集めた輸血の大手術を乗り越え復活した。その後、腎臓を悪くしてものすごく具合悪くても泣き言言わず電車に乗り通院していたことを母に聞いた。腎臓が悪くなってもう透析を考える時期になったのが90歳。このとき迷った挙句透析をすることにしてシャントをつくった。そして、さぁ明日から透析だぞ、という前日に亡くなったのだ。それも腎臓ではなく大腸が原因だ。その日、私は仕事場の病院で母から電話をもらった。「おじいちゃんが血尿で電話が来たから救急車を呼んだ」と。帰った私を待っていたのは、まるで強盗が押し入った後のような血まみれのトイレと居間だった。「もうだめじゃん」それが正直な感想だった。誇張ではなくものすごい出血だった。とりあえず私はバケツに水と雑巾を用意して血液をふき取り両親からの連絡を待った。結果的に言えば、祖父は虚血性大腸炎を患っていて(腎臓に気をとられていて全く気づかなかった)、トイレでいきんだ拍子に腸の動脈から大出血を起こしたのだった。祖父はトイレから這い出し父と母へ電話した。父はすでに職場を離れ、連絡の付いた母は救急車を呼び、隣家の電話番号を調べ隣の奥さんに様子を見に行ってもらい、救急車が来たところへ父が帰宅して祖父は父に付き添われて運ばれていった。出血性ショックでその日の夜中に祖父は亡くなった。両親は病院で付き添い、私は父の兄弟達への連絡役だった。ぴんぴんころりというのはこういうことをいうのだろう。かなり派手だったが。

母の以前の職場の同僚は、肺がんから脳へ転移してなくなった。関わりは、その彼女が独身で職場が遠かったため、病気の進行とともに通勤が厳しくなり職場に近かった我が家に3ヶ月ほど住んでいたことがあったことからだ。故郷から昔のお友達という人が上京して彼女の看病をするようになった。病気は進行していき彼女は治療と平行して気功による緩和を受けていた。病気は進行し、最後に入院したときに見舞いに行った時に彼女は私の顔を見て数秒間固まった。脳腫瘍の影響で私が誰であるかすぐに出てこなかったのだろう。それでも何とか思い出して私の見舞いを喜んでくれて、看護師に「友達」と言ってくれたことは今も忘れられない。最後はセデーションをかけて意識のない状態を維持してそのまま逝った。そのときに使用していたのがトリプタノール注で、この薬って注射もあったんだ、と思った記憶が残っている。

母は、私が大学生の母が40代前半のときに大腸がんを患って、手術を受けてそれは完治した。しかし、50代後半になって貧血が続き、上からも下からも内視鏡をやったが原因不明。その状況が1年続いて腸閉塞となり、造影検査で小腸がんが確定した。その前にもCTをとっていたが読影医はそれを見つけられなかった(造影検査をやった医師が後から映っていることを教えてくれた)。5月の連休明けの手術をし、10月に再発入院をして、12月に在宅緩和ケアに移行した。そして、明けた1月16日になくなった。

父は50才くらいのときに舌がんを患い、最初は放射線治療をしていったんは治癒したが、再発して舌の半分以上を切除、腕の皮膚を移植して舌を形成し、腕は腹から皮膚を移植して治療した。手術の際、患部側のリンパ節も切除したが、そちら側は特に転移がなかった。しかし、反対側のリンパ節に転移しており、もう一度手術をすることになった。これは母がまだ健在のときの話であり、入院中の父の顔を母がスケッチしたものが残っている。60歳を過ぎ、母が亡くなってもうすぐ5年という頃に食道がんを発症した。手術適応ではなく放射線と抗がん剤を使用して治療することになり、最初に入院、その後外来で治療を受けて、がんは縮小してきて手術は出来そうというところまできたが、手術の後遺症を嫌い手術を受けず、再び大きくなってきたがんのためになくなった。

近くは従兄弟が白血病でなくなっている。危篤になるまで知らされていなかったが、年齢が近く親しみを持っていた仲なので、他の従姉妹と会いに行った。従兄弟の親兄弟は(彼は独身だったので)、意識がなく状態の悪い彼にもう会いに来なくても、という気持ちでいたのだろうが、そういうものでもないだろう。考えがこちらとしては「うーん、それはちょっと」と思うこともあったが、渦中の人たちの精神状態がきびしく、あれこれ言えるものでもないな、と思わされた。特に気持ちの整理する時間は必要だよね(誰にとってもいろいろな意味で)、と改めて思った。

これだけ身近な人間の死に接し、医療系の仕事をしている以上に死はそばにあった。死というものは誰もが行き着くところであり、特別なものではない。ここまで生きていると、学生時代の友人ががんでなくなったり、自分より若い友人が自殺したりもちらほら出てくる。

母の死あたりから、死に対する感覚がだいぶ鈍くなった。悲しいと感じなくなっている。悲しいというよりあったものがなくなった喪失感が強い。おそらく今となりにいる連れ合いがなくなったとしても、取り乱して悲しむことはないのではないかと思う。

ただ、自分の子供たちのことだけはおそらく違うだろう。自分より未来を生きてゆくはずの子供。自分が育てていく子供。この子達は元気で幸せに生きていて欲しいと思う。いつか死んでゆく人間の一人であるが、それは自分が死んだ後で、安らかなものであって欲しいと心から願っている。

長生きしたいとは思っていないが、子供たちが独立するまではと思う。だが、必ずしも思い通りには行かないのが人生だと知っている。気負いすぎずできるだけのことをして、日々を生きるのが精一杯である。

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