努力について

私は努力の出来ない人間である。

努力が出来ないということは、自己責任だと考える人が多い。努力しないからだ、自分が悪い、といわれるが、本当にそうなのか。

自己弁護も兼ねているが。努力の出来るできないは勉強が出来る出来ないと同じようなものではないか? 強い意志で努力を重ねられることはもちろん素晴らしい。しかし、出来ないからといってダメな人間というのは違うように思う。

勉強が出来ない人間はダメな人間なのか。イエスという人もいればノーという人もいるだろう。それは持って生まれた資質の差の影響が大きいからだ。環境要因もあるだろう。勉強は出来た方がいいが、すべてではない。

では、努力は? 同じようにしやすい環境、もって生まれた努力できる資質、そういったものの影響がかなりあると思う。「やればできる」はやらなければ意味がない、は本当だ。では、なぜやらないのか? 出来ないかやるという行動をとるハードルが高いのではないか。

努力するにも才能がいる。

私と弟は大学受験で1年浪人をしている。私は予備校の授業を受けていたが、自分ではほとんど勉強しなかった。弟は授業のない日でも1日5~8時間一人で黙々と勉強していた。それは受かった大学のレベルという形で差となった。おそらく弟と私は、もともとの思考力の差はそれほど大きくはなかったと思う。私だって必要だと思えば、勉強するし頭に入る。現在仕事をしていてもそれほどおバカではない。

学生時代を通して成績は中の上くらい。常に。どうも私は集団の中で、中の上くらいになると満足してしまうようだ。正確には落ちこぼれない安全圏に入ることで満足して、それ以上の苦しい思いをするよりは楽しいことに走る傾向があるらしい。高校も大学も入学当初は成績は微妙だが、卒業するくらいには余裕がある程度の順位につけている。つまり“バカにされる心配がない”ところ。浪人したのは、学校の中で浪人する人間が多かったので、浪人することでプライドが傷つかなかったのだろう。

小学時代にいじめに遭い、プライドを保ちつつ残りの学校生活を毎日数えて必死で登校していた日々に、精神的な労力をすべて注ぎ込んでしまったと自分では思っている。苦しいのはいや、達成感なんて得られるか保障されていないもののために頑張りたくない、避けられる苦労は避けたい、と願った結果、努力をしない人間の一丁あがりとなったわけだ。

そんな私を父は努力は自らするものとノーコメントだったし、母は「努力も才能のうち」と頑張らない私を肯定してくれた。努力できる弟も「勉強できなくても自力で頑張っている」努力しない私をバカにすることはない。だから、私は努力する必要がない。だってちょっとやれば困らない程度にはできるし、誰も努力しないことを責めないんだもの。

いや、努力しないは語弊があるか。私の努力は、嫌なことがあっても耐えて生き続けていることに大半が注がれている。本当はすべて消えてなくなりたいが、そうも行かないので「努力して」生きているのである。問題がある人などからしたら、健康に問題もなく勉強もそこそこできて、経済的にも特別困っていない人間が何言ってんだという気分になるかもしれない。で・も、私は普通に働いてご飯を食べて生きているのが辛い。漫画を読んでいるときやゲームをやっているときが辛さを忘れられるときだ。友人といるときも気を遣っていてきつい。だからといって友人がいる幸せも手放したくない。

だんだん努力から離れてきた。よいしょ、引き戻して。

とにかく、人間は何にエネルギーを注ぎ込んでいるかはわかりやすいときとわかりにくいときがある。努力と呼べる形ではないものにつぎ込んでいる場合もある。だから、努力しない人間はダメじゃない。

努力できる人は尊敬に値する。でも、努力できない人を軽蔑するのは間違っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?