「GID」批判者と「GID」自称者の認識のズレ【同じトランスジェンダーなのに?】

1.なんかずれてる

「GID」概念を批判する人がいます。すなわち、「病理概念なので、トランスジェンダーにそれを適用すべきでない」など。

一方で、自分がGIDであることを誇りに思っているような人もいます。たとえば、嬉々としてtwitterにGID診断書をアップしている人がいます。

もちろん後者としては、自分がGIDであることにアイデンティティを感じているので、GID批判は頓珍漢のように感じるでしょう。(GIDと診断されることで医療にアクセスできるようになるという実利的なメリットの嬉しさもあります)

⋯なんだかそもそも、両者の考える「GID」の前提が違ってて、議論が成り立ってないように感じます。

どうでしょうか?


2.ずれてる理由?(すごく単純化した推測)

医学は、「男なのに自分を女だと思ってる」状態をGIDと名付け、「脳に刺激などを与えても治らないので、せめて体の方を変えて楽にさせてあげよう」という対処療法に進んできた、という認識です。

たとえば、岡山大学の2005年~2007年の「性同一性障害の分子遺伝学的研究」では、「性同一性障害患者FTMと女性健常者、MTFと男性健常者の間において」といった表現がなされています。MTFが暗に「男性障害者(男性異常者)」とされているであろうことが読み取れます。

参照;https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-17591213/


一方で、GID当事者はというと、そうした対処療法へのアクセスを可能とする「GID診断」を、「女なのに男の体に生まれてしまったと認められた状態」だと解釈しているように思われます。

だからこそ、「医者に女だと認められた」と思い、twitterにアップするのでしょう。当の医師は「男性障害者」だと思っているかもしれない、にも関わらず。(そのあたりは、個々の医師の認識にも大いにに違いがあると思っています。)


3.医療との付き合い方・毒矢・その他

いずれにしても、医療は「治療が有益な限りにおいて」うまく付き合えればよくて、それ以上のものを期待すると何か歪がでるはず、と私は思います。

社会的な効力を求めるにしても、「会社に簡易的に説明するための方便」くらいに考えるべきで、診断書一枚であらゆる権利を獲得できるように考えてしまったら、世の中に絶望してしまうと思います。


仏教徒としてあくまで実利主義者でありたく、不可知論者として本質論は避けたいところです。

すなわち、仏教は悟りに関係のない無意味な議論を「毒矢のたとえ・毒箭のたとえ(『中阿含経』巻第60「箭喩経」)」と戒めました。まさに「GIDなのかどうか」といったことは、抜くべき毒矢の前にあっては無意味な議論です。抜くべき毒矢、つまり本来の目的とは、「女として生きる」といったことと思います。毒矢を抜くには、「本来の目的達成のための医療へのアクセス」という手段に目を向けたいところです。

まして、「他人がGIDであるか」なんてわかりませんし、わかったとしたらエスパーです。他人だけでなく、自分もそうでしょう。そのようなエスパーな努力(=本質さがし)に精を出すには、人生は短すぎると思います。


※ところで、「理系」の人は、「心の性」より「肉体的性」にこだわる印象があります。理系(一般)特有の「想像力のなさ」のような気もしているのですが、このあたりは、またの機会に。


※また、「医師のお墨付き」問題については、当事者のアイデンティティだけでなく、社会的な効力を持ちえます。身近なところだと、会社に説明しやすい、とか。個人的な関心としては、イスラーム社会でのトランスジェンダー受容にあたっての医師の役割に関心があります。このあたりも、またの機会に。

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