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わたしの旅暮らしをつくる #10|6/10-16

6/10

また会おうよ、と話してた友人と会う。話すことしかしてない気がする。たくさんすくわれすぎているからどうすれば返せるのか、考えている。コンクリートに寝っ転がって目を開くと一面が青で、あおいなぁと思いながらなんだか恐ろしくなる。島がひとつもないまっすぐな太平洋を見たときと似ている。
そのまま海沿いで夕暮れを見た。沈む瞬間まで、じっと見届ける。写真は撮らなかった。わたしの見たものや感じたことをそのまま残せないと思うから、撮れなかった。またすぐにね、と言って別れたけれど、しばらく帰ってこないことを余計に意識させられた気がする。大丈夫だと自分に言い聞かせるように、強がってしまう。帰ってちょっとだけ泣いた。

帰るまでに食べ切ろうと頑張る野菜。カラフルで夏。


6/11

お世話になったスタッフのふたりとご飯に。ふたりの間だけに生まれる空気感を見ているのが、楽しくもすこし羨ましくもある。ふたりにとってはこれが日常で、そこにヘルパースタッフが非日常的に、少しだけいる。わたしが去ってもまた、何ら変わらない日々が進んでいく。そこにわたしはいてもいなくても変わらないのだと思っていたけれど、萩で過ごしたわたしにとっての2ヶ月はふたりにとってもわたしのいた2ヶ月で、たしかにわたしは存在していたのだなと、話しながら思った。
ちょっとだけ海行こうぜ、と見た夕暮れ後の菊ヶ浜、綺麗だったな。遠くにイカ釣りの漁火がぽつぽつと街のように見えた。忘れない、忘れたくない日が増えていく。

海があるまちが大好き。


6/12

萩最後の夕方はずっとやりたかったことをする。海近くのドリンクスタンドでクラフトビール買ってきて、船乗場から伸びる灯台の先に腰掛けて、ビール片手に夕日を眺める。釣りしにきたおっちゃんがひとりだけ、ちょっと離れたところにいる。カネコアヤノ流しながらぼーっとする。
今までに見た夕日でいちばん赤い。沈む瞬間はみんなじっと見つめているから、まちが静かになる気がする。時が止まったみたい。日が落ちたらまた動き出す、車の走る音が聞こえる。明日もまた気が向いたら昇ってきてくれるといいね、って言ってたな。

寝っ転がって首をぐーっと上にすると、
空から海を見下ろすような雲。


6/13

朝からずっとそわそわしている。お世話になった人たちにまたねって言いに行く。おみやげに、といろんなものを持たせてもらった。あたたかいな。萩での暮らしが終わる実感は湧かなくて、ほんとに今日で帰るの?あと何時間でバスが来る、ってひとりごとのようにずっと言ってる。
バスセンターまでTくんがお見送りに来てくれた。じゃあまた!ってしっかりと握手して乗り込む。萩のまちを抜けてひとつ目の峠を越えたとき、しばらくここには帰ってこないのか、と思ってやっぱりちょっと泣いた。4月に来たときは桜がちょうど満開で、それがいま窓から見える景色にはもくもくと夏の雲があって、ひとつ分の季節をたしかに過ごしたんだ、ということがわかるから少しだけ安心させられる。

カレンダーの数字を13に回すとき、
最後だ、とほんの少しどきどきした。


6/14

目が覚めて、夏休みみたいだなと思う。ながく引き伸ばされた時間。いつもは長期休みしか帰らないから、この時期の地元にいるのは久しぶりかもしれない。青の濃い萩とちがって、こちらの空気は黄緑色をしている。
テレビから流れる賑やかな音、妹との軽い口喧嘩、家族のいる気配。取り込もうと意図していない情報が多すぎてなにも考えられない。夜にしか逃げ込めない。萩での日々が思い返せない。寂しさも感じないくらいはるか遠くにいってしまったような気がする。あれはすべて楽しい夢だったんじゃないかとすら思う。実家に戻ればまた元のわたし、気づけばまた前と同じレールに乗っていて否応なしに進んでいく。怖いのかどうかもわからない。


6/15

入院している祖母の面会に行った。
わたしのことを認識できていないことにはもう、なにも感じない。そういうものだと思う。
たべたい、かえりたい、さびしい。わずかに動く口から出る言葉をどうやって受け取ればいいのかわからない。「美味しいもん買ってこんといけんね、なにアイスがええかね、」と話しかける叔父をただ見ている。祖母の必死の言葉、力の限りに握る手、それに応えられないからわたしも誤魔化すように笑うことしかできない。終了を知らせる15分のタイマーが鳴る。


6/16

ながい旅の始まり。知っている岡山なのに、帰る家がいまは無いことが不思議な感じ。長野までの道中は、人に会いにいく旅になりそう。
とりいスタッフの友人たちに会えて嬉しい。ウシガエルの鳴き声どんなだっけ? 図書館のそばの池でこないだたくさん鳴いてたよ、という話の流れで、ウシガエルの声を聞きにいくことになる。チャリに乗って、夜のまちを4人で通り抜ける。生ぬるいと思っていた風は案外涼しくて気持ちいい。鳴き声はそんなに聞こえなかったけど、でかいおたまじゃくしはいっぱいいた。ついでにドンキで買ってきた花火を川沿いでして、しばらく寝っ転がってから帰ってきた。大学生みたい〜と言ったら、まだ大学生じゃん、と言われた。そうだった。過ごしたい時間が似ているってやっぱり心地いいなと思う。

みんな、年に一度くらいしか花火しないらしい。なんで?
友人は線香花火まとめて燃やしてた。儚さが足りない。


萩を離れて、あのとき感じて触れたエネルギーのようなものまで見失ってしまったような感じがする。覚えていたいから萩での日々を思い返してみたりもするけれど、それでも心の奥からうわぁっと湧いているものは思い出せなくなっている。薄れゆく記憶。見えないだけでそこにあるとか考えてみるけれど、綺麗事のように思えてならない。

前半の4日間のこと、大切に残そうと思えば思うほどに書けなかった。書くことで終わらせてしまうこともこわいし、書かないで忘れてしまうこともこわい。結局、言葉に残したかったことの半分も書けなかった。

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