今年もミスiDのオタクをするにあたって

ミスiDを志した女の子の意志はいつだって1000パーセント肯定したいけど、そもそもミスiDという枠組みを本当に肯定しても大丈夫なんだろうか?本当に本当にこの催しは根源的に女の子達を幸せにできているのだろうか?与える幸せの総量と苦しみや絶望の総量、果たしてどちらが多かった?
という不安がずっとある。

私は最近ミスiDの女の子のことをよく呟くけど、それは、誰かに自分を知ってほしいと思って表に出ている女の子達をまず私が知り、私がそのことに言及して他の誰かも「今こういう女の子がいるんだ」と知ることは彼女達にとっても本位なことだろうとギリギリ信じているから。
でも毎回自分が言及することに対して不安はある。私が言及することはもしかしたら彼女達を何かしら加害することに加担していないか?
ということが怖い。

ネットに、しかもただのSNSじゃなくミスiDというそれなりの知名度がある媒体に顔と名が載ること、そしてそこに色んな数字や順位が伴い、多くの人達から品評の眼差しで見られることは、やっぱりとても重いことだから。

みんなそういったこと全部よくよく考えた上で、覚悟して臨んでいるのは間違いないだろうけど、覚悟してる人間をだから傷つけてもいいなんてこともまたあるわけないので。

覚悟している女の子が、覚悟しているからという理由で容赦なく傷つけられていく姿を今まで何度も見てきた。
当時彼女達のことを好きなこと自体が加害に加担しているようで苦しかった。
そういう積み重ねで、どんなに音楽やパフォーマンスが素晴らしくても一切言及しないし極力視界に入れないと決めているグループがもういくつもある。
オタクはオタクなりにそれぞれの責任を持つことが必要だろと思っている。

ミスiDというオーディションもSNSもコンテンツかもしれないけど、人間はコンテンツではないということ。

その狭間で、明日はまた違う結論が出るかもしれないけど、今日の私はミスiDというオーディションを完全に肯定することも否定することもなく、ただ彼女達の存在ひとつひとつを受け止めて行きたい。

#ミスid
#オタク

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