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広義の演劇と狭義の演劇への走り書き


私にとって演劇は広義の演劇ではないものです。


 私自身は演劇をすることができないと思います。演劇形式に安心して沿って何かを作る事ができないのもそうですが、演劇が何であるかを考えれば考える程、いわゆる演劇形式が演劇の核心とズレていて、いやに装飾的なように思えて仕方が無いのです。(これが既にミニマリズム視点だなとは思いますが、私の様な素人や小演劇ではお金が無いのが現実ですし、演劇形式を印象付けている色々な要素を組み込む時間的・金銭的・精神的苦労は恐ろしいものです。)
 私も「演劇の核心」がどのように定義できるか考えています…。しかしながら、「演劇の核心」は実生活や演劇以外の文化が普通に内包していることだと思うのです。たとえば、身体を通した無意識の変化・観客が能動的に客体化する事・逆に観客の精神は自然に主体化する事・・・・・・など、数えきれないほど沢山です。
 私の考える「演劇の核心」が、なぜ演劇独自のものでは無いかについての答えはあります。演劇が現実の模倣(ミメーシス)を伴って発生したからです。演劇の舞台は世界を飲み込み、整理して実現する事をしてきました。
 また「演劇の核心」に付け足される形で、物語(ドラマ)が生まれたのが今の私の演劇意識に関わる問題なのです。………………

 物語は、現実の模倣とそれを応用した非現実の創造を支えたと思っています。そもそも物語の始まりに関して私は、現実の模倣を通して何かを伝える為の「模倣する現実の整理」が、物語(ドラマ)を書く事に変化した結果、過去には起きていないことを書く、想像の物語に繋がったと考えています。

 想像の物語を実演する行為は、演劇の上演環境をもっと整え、さらに自在に操る事を要求することになります。そうして舞台美術や舞台照明、舞台音響などなど様々な要素の拡大を引き起こしたと思うのです。この様々な要素が、今の演劇形式を印象付けているもの自体だと捉えています。

 想像の物語(ドラマ)を実現しようとしたせいで演劇は要素(演出家、美術、照明、音響、道具、装置…)の拡大をすることになりました。またその前に私は“物語(ドラマ)が生まれたのが私にとっての演劇に繋がる大きな問題だ”と書きました。ここが広義の演劇形式に私がズレを感じる原因なのです。

 今、「ドラマ見てる?」と言うとテレビドラマの話になります。今やドラマ(物語)は演劇のものではなく、テレビや映画などのものだと思えませんか?思っていませんか。言えませんか?演劇はテレビや映画以前に物語(ドラマ)を提供しました。今もテレビや映画ゲームとは違う存在として、物語(ドラマ)をつくる場に小劇場界は成っていると思いますが、私は物語(ドラマ)としての演劇は期待されていないのではないかと思うのです。
 もちろん面白い作品を書く戯曲家は活動していますが、テレビドラマの脚本を担当することも多くあり、やはり演劇と物語(ドラマ)との繋がりは昔ほど強くはないと思うのです。その中で私には演劇形式が背負う物語(ドラマ)とそれを実現しようとする様々な要素は装飾的で、その旧来型の物語(ドラマ)はズレている と感じるのです。

 なので私にとっての演劇はポスト・ドラマ演劇と言えるかもしれません。
広義の演劇形式に対する問いかけから、「演劇の核心」を探し出して作品をつくることがソレだと言えます。






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