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立誠小学校「おもいでのよせがき」

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元・立誠小学校では、小学校跡地活用プロジェクトとして、立誠・文化のまちプロジェクト〜立誠・文化のまち運営委員会を組織し、芸術・文化発信の場として活動を続けて参りましたが、ここで現… もっと読む
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#あ行

A.S (福祉職)

飲み歩く中でも、憩いの場でした。

稲森 明日香(夕暮れ社 弱男ユニット)

立誠小学校を会場にたくさんの演劇に出演し、演劇を観て、過ごした時間、そのどれもが忘れがたいものばかりです。まさに学舎。感謝です。新しくなった立誠に行くのも、たのしみですッ!

イチハラ ヒロコ(美術家)

京都国際映画祭では大変お世話になりました。安斎肇さんとの二人展はたいへん楽しいものでしたし、MKタクシーさん・フェリシモさんとコラボしたことばタクシーで京都の街なかを走ったことは貴重な体験でした。京都ふるどうぐ市も骨董好きのわたしには大好きなイベントで、立誠小学校で復活してほしいと思っています。

岡見 弘道(京都 裏寺 稱名寺 住職)

今から91年前、昭和2年(1927)、立誠小学校が木屋町高瀬川のほとりに建った時、この地のひとびとはどんな思いで校舎をみあげたんやろ?地域の子どもたちが学ぶあらたな教えの場として、誇らしく期待に満ち光り輝いてたんちゃう?そして今またこの校舎は新しい出発にむけて準備に入るんやな。国の内外からさまざまな人々が訪れ安息を得る場(ホテル)として、また刺激的な知と文化を提供する場(図書館&ホール)として、さらには地域コミュニティ活動の場として、なんだか想像するだけでワクワクさせられます

岡見 裕子

まさか、京都を代表する繁華街で子育てをする事になるとは夢にも思いませんでしたが、3年生まで立誠校に通った長男を通して、小規模校の良さを追体験していた私がそこにはいました!統合が現実問題となった時、明治時代の初め、国に先駆けて作られた番組小学校について学ぶ機会に恵まれた事は、私の立誠校への想いを新たにするきっかけともなりました。子どもは家庭だけでなく、地域で守って育てていく!その象徴の1つが立誠校だったのですね。閉校から10年経った頃、4年間程開かれた子育てサロンのお手伝いをし

あーちゃん

いつも、京都に行ったら高瀬川、そして、立誠小学校。それが私の楽しみでした。昔懐かしい校舎の中で、想い出のなかに、浸ることが何よりの楽しみでした。 ありがとう、立誠小学校! もう、あの姿を見ることが出来なくなる事、とても残念です。でも、みんなの心の中に、きっと!本当に、ありがとうございました。

嬉野 雅道(水曜どうでしょうディレクター)

高瀬川沿いに歩くとその小学校は見えてきました。鉄筋コンクリート3階建て、なんとも贅を尽くした設えでした。当時の小学生も、手を引いてきた父兄もこの校舎を見上げて息を呑んだことでしょう。「さあ、ここはお前たちの小学校なのだよ」。優しく両手を広げて迎え入れるように、その建築には威圧感がありません。立誠に通い学ぶことは長く子どもたちの誇りだったろうと思います。それが小学校を初めて前にしたときの、私の正直な印象です。校舎建築の陰には、心の豊かさを先取ろうと理想を見つめた人々がいたのでし

石田 沙弥香(ラテアーティスト)

友人たちの大切な思い出が詰まった学び舎で成人後にお仕事をさせていただけたこと、本当に光栄でした。なくなってしまうことはとても寂しい気持ちです。閉校を再活用するプロジェクトは容易なことではないと思います。思い出や文化を守り伝え、新しい風と未来への希望とを繋げ、生かしていく素晴らしい活動です。ささやかではありますが、私が志すコーヒーという形でこの活動に関われたことを心から嬉しく思っています。ありがとうございました。

遠藤 絢子(京都精華大学卒業生)

立誠小学校に毎年通うようになったのは京都精華大学の4回生の頃、教授に夏祭りのお手伝いを頼まれたのがきっかけでした。初めての事で戸惑ってはいたもののあまりの盛況でとても楽しく、そんな事は忘れていました。「また来年も手伝いにきてくれ」と言ってもらった時、自分を必要としてくれた事がすごく嬉しかったです。地元に帰ってしまってからも立誠のお祭りを毎年お手伝いに行くようになり、それが私の生きがいになりました。私は立誠のお祭りを通じて色んな人と知り合いました。そしてとても大事な人達に出会わ

大西 結衣(動物福祉活動Pawer.)

最初は観光気分で伺いました。京都ならではのお寺やお祭りとは違うジャンル、「学校」。その空間は、昔は生徒たちに、そして今は来校したすべての人に、何かを感じさせる場として存在している気がします。その「空間」が時や文化とともに変わりゆく中で、ご縁あって保護犬・保護猫にまつわる情報誌や絵本を、校内に置いていただいたことがありました。全く違う目的で来校された方が、たまたま置いてあった保護猫の絵本を読む…。何かがきっかけで元・立誠小学校と交わった人や文化、歴史との出会いも、そんな偶然から

大歳 倫弘(ヨーロッパ企画)

2009年、普通の教室だった場所を使って無理言ってお芝居をやらせていただきました。そして「もう一回」「あと、もう一回」と回数を重ねていくうちに、機材も用意してくださり、ほかの劇団も使用する素敵な演劇スペースとなっていきました。ですから勝手だけど、もともと森だった場所を開墾したら、そこに様々な人がベンチや遊具を持ってきてくれて、立派な公園にしてくれた、という印象を持ってます。だからたまたま立誠小学校の近くを歩いてて、演劇をやってたりするとすごく嬉しくて。これからまだまだたくさん

大塚 章寿(カフェ サラサ 代表)

enjoy coffee timeでお世話になりましたサラサです。当店と同時期にオープンした、タイムズビルがある当時の木屋町はディスコやカフェバー全盛の時代で、休みの日や仕事後によく遊びに行ってました。その時によく目にしていた立誠小学校が閉校で閉まっていて、カッコいい建物なのに勿体無いなあって、いつも思っていました。明治維新後の京都で士風士魂の町衆達の手によって番組小学校としてスタートしたっていうことはつい最近知りました。ものすごい勢いで学校が建設されていった明治の時代に想い

石塚 就一(元・立誠シネマスタッフ)

僕にとって立誠小学校は「過去の場所」ではなく「現在を映す場所」でした。映画の上映スペースで働いていたきっかけで、他のイベントにも遊びに行かせてもらったのですが、どれも刺激的な内容でした。若い人たちが地元の先輩方と一緒に新しい楽しみを見つけていく様子はとてもスリリングだったと思います。シネマバトルにスタッフ参加させていただき、さまざまな才能ある方々とお話できたのも貴重な体験でした。やはり、歴史を重ねてきた場所には独特の「空気」が宿るのでしょう。校舎が別の建物に変わっても空気はず

沖野 修也(プロデューサー、作曲家、選曲家)

20代の前半、四条縄手が仕事場だった僕は、よく木屋町をブラブラしたものです。その頃から建築好きだったから、立誠で学んだ人が羨ましかったなぁ。ここ数年、コーヒーを飲みに行ってますけど、ここは都会のオアシス。今は東の人に羨ましがられてます。