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山から世界。

「山女」観てきますた。帰り道、いろいろ考え、考え~…おなかが空いて、ごはんを食べれる有難さ。

というか、お昼を食べずに行ってしまったので、売店でトッポ買って観たんですけども、映画が始まって早々に反省することになりました。
呑気にトッポを食べてごめんなさい…。トッポ…トッポ…トッポどころではない事態(映画の中)。でもお腹がすきすぎて帰りの車でがっつり食べた。
トッポっておいしい…私でも買える…現代…ありがとう。

しかし、考えるって別に免罪符じゃないので、いろいろ…うーん。
書きながら自分の頭を整理しつつ、晒すので、なにか妙案がある方は教えてくれたり、実行してみるなど、お好きにしてください(投げっぱ)。

※以下、舞台挨拶の内容・ネタバレを含みつつ、山女に関係ないことも多々書きます。私の知ったかぶりも多分に含みます。
イラついて血圧が上がりそうな時は、ご自身の健康のために読むのをやめて、安静にしてください。セルフケア大事。セルフケアしていい現代…ありがとう。

①過去の話とはいえ、日本の陰湿的というか、生贄を差し出しつつその上に築いたものを和とする感じが今も脈々と受け継がれていて、それを映像で観ると…なんというか、この国における目指す方向性、幸せって何だろう、みたいなことを考えます(性別年齢問わず)。あと何百年これやるんだろう(その前に終わる可能性)。「仕方がない」と生贄はセットで、何よりそれは思考停止かつその場しのぎ…。
常時、村八分における二分(生贄、監視対象、社会的弱者、下位者、不満の捌け口、口減らし要員、少数者)を確保し続けてる感じがするというか…二分以上なのかな…。
(そのバランスも、もしかしたらコロナ禍で崩れたのかもしれない…表現として悪質かもしれないけど、弱者選抜が感染というランダム形式になり、貧困・離職・生活不安は国内のより多くの人に忍び寄ったというか)。
大切な人、大事な人がいても、それが「弱み」「取引材料」「利用対象」になっちゃう(されちゃう・しちゃう)国における「しあわせ」ってなんだろう…みたいなことをぼんやり考えています。
一応、マジョリティサイドは食うに困らなくなった現代で、この殺伐っぷりは自己責任なのかなぁ…?
(殺伐さは個人の感覚の問題…努力不足って言われると返す言葉もない…)。
もっとなんというか、こう…生存戦略自体を創造する…したい、きもち…(???)。

②とはいえ、マズローの五段階欲求(リンク先:やさびと心理学さん)でいうと、それぞれの階層の地獄をそれぞれが見ているような気もするというか。
それぞれの階層における「恥」みたいな概念によってお互いの傷を隠してしまい、家族であろうとなんだろうと、どこかつながってない気がする…。
映画やドラマが描く「しあわせ」以外のしあわせはきっと現実に、個々人にたくさん大小さまざまあるのに、なんか日本の表現て(映画に限らず)しあわせ描写があんまり上手くないというか(ディスってるんじゃなくて個人の主観で個人の感想です)。
それはいいのだけれども、しあわせって在り方で、なる・ならない、する・しない、じゃないものなのかもなぁ…と考えたとき、在り方として描くのが上手い「ものづくり」の方、が、近年あんまり思い浮かばないというか…(私の視野の狭さもある)(めっちゃ予防線張る…)。
いや、もしかしたら「他人のしあわせを描いたところでヒットしない」のかもしれない…「しあわせを描くための不幸を描くうちにそれがエンタメ先鋭化した可能性」「しあわせからは芸術・文化の匂いがしない」とか「現実見てなさそうに見える」「しあわせってアホっぽい...?」…そんなことをぐるぐる考えています。非難じゃなく…なんというか、目指すところが見えない諦観の蔓延…不安…。希望のつくりづらさ…。これを放置し続けて得るエンタメって、たぶん逆に、不安が消えない…。

男性社会的だった(現在進行形)諸分野において、男性性にとってのしあわせって結局なんだったんだろう。男性性は自身のそれを描かない...。欲は描く。散々描いてきたと思う。市場がある。弱者を弱者たらしめる市場。
でも、誇り、尊厳の持ち様…そういうものを仮に描いても、他者の価値観に依存的なところがある…社会的生物性からの逃れようのなさ。上下関係。
一人前と認めてくれる「誰か」。妻には逆らえないと言う時の「非対等性」。自己意志・自尊感情の持ちづらさ…。
…なんの話だこれ。

③お金払って、時間を割いて、人のしんどさ(映画)を観る動機って、実は現代(日本)人にそんなにない…のかもしれない。と、考えた時、なぜ私は観るのかといえば、それが現実じゃない(フィクション)であることに救われるから。生身の人間が生き創り出してくれていることで、生身の人間の眼を通して描かれることで、人の痛みや苦しみへの想像力は微量でも培われると信じているから(私自身がASDなのでそうして学ばないと人を傷つけるから)。
ドキュメンタリーは単純に、私がものを知らないので、世界を広げてくれる。

④なんの話だっけ。脱線がひどい。山女の話に戻って。
予算が(内容・規模からみたら)多めにあったとのことでしたが、NHKなら納得。文化庁は、若手監督さんの支援ですかね。国際共同制作とか。
と考えた場合、若手育成という視点では何より、と思いつつ、公権力側が作り手とのつながりを作っておく感じとかは…演劇関係のハラスメント問題などを見ていて…後々、予算を取れる人だから(誰かが何らかの被害を受けた時)何も言えない…とかってならないか、若干心配です(この作品の監督云々じゃなく)…そんなことを言っていられる場合じゃないかもしれないし、そこまで打算じゃないのかもしれないけれども…(ひねくれねじくれ)。
なんというか、映画というものがあんまり公権力の下に置かれるのも…抵抗がある…私が年寄りだからか…。
だって、お上(公権力)の顔色見ながら暴力(市民間のものであっても)を描かれたとして、それは誰のための何なんだろう。ムラ社会を生きているお前らはこんなに醜いぞ、と言われているような(被害妄想)。
日本は上に行けば行くほど、直接自分の手は汚さないシステム。
生きてなお、生きるという穢れから逃げられるシステム。
(作中、火を二人につけさせるのもズルい。死刑の床が抜けるボタンを何個か用意して複数の刑務官に押させる狡さと同じ。現場の負担を軽減しているようでいて、上にいる人は絶対にやらない)。
ただ映画が文化的だとして、一般社会生活ってそんなに下に見られなきゃいけないものなのでしょうか。
そりゃ、生きるって汚さもあるけど、汚いだけじゃないものがあるから生きてるんだけども…。
そうならないための学問・教養なのに、それを経済格差そのままに、自己責任にして育てなかったこととか、国営放送自身わりと不問で済ましている感じ、なんなん…。はっ、なんか私怨…🙊

⑤とはいえ、映画づくり…俳優業(性別問わず)、改めてすごいなと思ったのですが…このまえ、ジャニーズの性被害を特集していたニュース番組で、キャスターの方が「自分達にも責任がある…けれども、なぜ我々はおおごとに捉えなかったのか」と自問していて。
「どこかで芸能ゴシップとたかをくくっていた」からじゃないか、と仰っていて。
何が言いたいかというと、俳優業を含む「芸能」を、これだけのことをやっている「芸能」を、なんで私たちは下に見るような感覚でいるのか…そこでの被害を訴え出る方を否定し、軽視してしまったのか…という問いにまで、そろそろスピードアップして辿り着きたい。
いつまで悪を、醜さをアウトソーシングで済ましちゃうんだろう。私(たち)。
枕営業という揶揄って最悪だと思うんですけど、そう言わせる風土の本質を誰か、ものすごい眼力で見てたりしないかな…私の眼力じゃ見落とすものが多すぎるのですが…。

⑥さらに脱線して、映画の興行収入上位を占めるアニメの制作労働者が報われているのかといったらそれも怪しい…(余計なお世話がひどい)。
なんでこんなにクリエイティブをナメ腐る感じが肥大してしまったのか…。
いや、そう感じているのは私だけなのかな…だとしたら、なんか私はそういう病気なんだと思う。ふむ…否めない🤔
ナメてなんかいない、としても、実質大事にする構造が機能しなければ、人が動かなければ、言葉をどれだけ重ねたところで、大事にしていることにならないと思う。
いや、疲れている人が多い、余裕のない人が多い、ということもあるのか…むにゃむにゃもにゃもにゃ。責める立場にはない。

⑦そしてエンドロールで「世界の終わりから」でおなじみ(チラシをつくりながら一人で勝手に馴染んだ)の、ブースタープロジェクトさん、プロデューサーの三宅はるえさんの御名前を発見。ホムンクルスも。
世界の終わりからといえば、ドリパスの上映、決定してますね。わーすごい。ドンドンパフパフ🎊
思えばこの作品きっかけで、宣伝について色々知ろうとしたり、考えたりするようになったのですけれども。
宣伝部の方も、やはり企画段階から携わっていると色々動きやすい、みたいなインタビューを読み(あ、この二作品とは全然関係ないインタビューです)…うーん、ひと作品・チーム一丸となれる率ってどのくらいなのだろう…。
短期組織にしては規模が大きいし。
予算の問題もあるかもしれませんが、各々生活もあると考えると、割ける労力・気力・時間は限りがあるでしょうし…
こういう他部門間のハブを監督が一手に引き受けたらしんでしまいそう…
今回みたいに、監督自身が宣伝するケースもあるかもしれないですけど、それはそれとして、各地方での質疑とか情報、まとめる担当の方とかいてもよさそう…というのも、海外で上映したときにこんな質問が出た、みたいな話がとても興味深かったので。そうか、監督自身は他の地域や国でも直接意見を聞いて(伝えて)きたんだなと。
上映前だと解禁できない情報も、上映後、監督と観客が出会っていく過程もまた作品の命が続いている道程のような気がするといいますか…。細胞分裂的な(?)。波紋。伝播。
後からファンになったり、作品を好きになった人向けの記録も残ってほしい…。同業他社(者)や後続・後輩の参考になったり、切磋琢磨要因になっても良さそう…だめなのでしょうか。このご時世、好敵手と書いてライバルとは読まないのかしら。

⑧総じて、私は映画をつくってる側の方達がしあわせで在るためには、どうしたらいいのかが、いちファンとして知りたい…のかもしれません。
予算、ハラスメント、労働環境、教育環境、メディアとの係わり、その先にいる私を含む世間。と、「作品」という存在との兼ね合い…。
その距離感を決めるのは、文化庁やNHKじゃなく、もしかしたら作り手の方達でもなく、私たち一人一人なのでは、と思う。ずっと思ってる。
けど、如何せん具体性を持てずに来てしまった。
なにをどうしたらいいんですかね…。インボイスも止まる感じないし…。
お金の問題が大きい、のかなー。お金。もはやお金も世界経済と切っても切れないですし。お金。お金かー。ここをちゃんと考えないと、お花畑って言われるんでしょう。じゃあ苦手だけど考えるー。勉強するー。ますー。

⑨お金・時間・人と常々向き合っている世のプロデューサーさん、ありがとうございます。観るだけの人間(私)なんて外野でしかないけれど。その外野の内側を生きる作品というものをありがとうございます。
どうか、いのちだいじに。

⑩遠野文化研究センターさんnoteやってらっさる。おわり。
おやすみなさい。


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