ジョーブラックによろしく

恐れなければ大丈夫

 社長のところに死神が来る。社長は言いなりになって、死神がつきまとい、会社の買収を決議する会議にも同席する。が、かわいがってきた末娘を奪われて、思うことを包まずぶちまけると、立場が逆転する。

社長は自分が一代で築いた新聞社をわが子のように思っているが、そこに買収の魔の手が伸びる。同時に、自分の命の終わりを告げる死神が訪れてくる。社長は、会社も守りたいし、命も守りたい。それで、部下と死神に従ってしまう。

 よく、母は強し、という。守るものがあると強いからという理由なのだそうだが、本当は守るものがあると弱い。この社長は、自分の作った新聞社、愛する娘、という守るものがあるために、他人の言いなりになってしまう。それで会社も娘も、目先の利益を求める人に持っていかれそうになる。

誘拐という犯罪が成り立つのは、子どもを守りたいという欲があるからだ。ゆすりや恐喝、今よくある迷惑メールも、自分の恥ずかしい姿をさらしたくない、自分のプライドを守りたい、というような思いがあるからこその犯罪だ。そのままの自分を認め、自分をありのままにさらけ出せるなら、こんな犯罪はなくなってしまう。自分を、自分以上に見せようとするから、悪意につけこまれてしまう。

 この作品の社長は、絶対死んではいけない教の信者だから、死神を恐れていた。でも娘のことで我を忘れて、やけくそになって死神に向かい、思うことをぶちまけてしまうことで、絶対死んではいけない教の信仰から離れることができた。我を忘れる瞬間が生じたから、苦から解放されることになった。

 仏教では、囚われから離れることが大事だと説かれる。死ぬのは良くない、という囚われから離れられれば、多くの苦から解放される。何かを守らねばならない、という囚われから離れられれば、様々な苦から解放される。

この作品では、相当長い間生きてきた死神が、たかだか65年しか生きていない社長や、入院している黒人のおばあさんに道理を説かれるのが、いささか納得のいかないものの、とはいえ、生きることの意味について考えさせてくれた。

 冒頭の娘と男がコーヒーに同じタイミングで砂糖とミルクを入れるところ、男がコーヒーショップの人とは違うと察した時の娘の表情と、こういう描写は映像でこそなせる技だと感じた。

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