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暁山瑞希とカムアウト問題 〜性別の前景化〜

こんにちは、ありあです。
瑞希バナーイベでしたね。

良かったことは言うまでもないのですが、今回は私が感じた思いを共有したくて筆をとりました。

はじめに 「今」までの瑞希

さて、今回記事を書く時にどうしても無視できないことがあります。
それは、過去イベントでの瑞希と絵名の関係です。当noteでは幾度か記事にしているので、お読みの方はご存知の通り、瑞希と絵名の関係はある一点に収束すると思っておりました。

瑞希がカムアウトをして、絵名が受け入れる、もしくは絵名がカムアウトをさせて瑞希が受け入れさせる、そんな一つの終わりへと収束していくと思っておりました。

これに関しては「ワクワクピクニック」や「夏祭り」でのストーリーで瑞希や絵名が「一方的に救う」ことで問題解決しているという点、瑞希が「変われるかな」、「諦めなければ」と独白する点などあげればキリがありません。
これらの積み重ねは、読者にカムアウトの重大性を伝えると同時にカムアウトをしない未来をどんどん希薄にしていったように思います(私だけかもしれませんが)。

だからこそ、今回のイベントストーリーは私にとっては本当に晴天の霹靂でした。こんなにも舞台を整えたのに、逆さに描かれた絵をひっくり返したような鮮やかさで、ストーリーが一区切りを迎えるなんて夢にも思っていませんでした。

Ⅰ.水面下コミニュケーションとタブー化

今回の記事はストーリーをなぞるというよりは、かいつまんで書きたいことを書いていく形にしようと思います。
そして、今回はがっつりジェンダーに触れていきます。

「ボクのあしあと キミのゆくさき」の物語は、ニーゴメンバーとビビバス(神高)メンバーが出会うところから幕を開けます。

そこで絵名が聞いた「学校での瑞希の様子」に対して杏はこう答えます。
瑞希が危惧しているようなことは影すらも感じさせません。
瑞希の紹介文をそのまま持ってきたような回答ですが、ここに「成績がいい」、「こってり絞られて」いるという絵名たちにとって新しい情報を加えることで、それ以上の追及がなされないようにしています。

その答えに安堵した瑞希は、いつものような調子でこう返します。絵名も瑞希の成績が良いということを話題に挙げ、瑞希の危惧している話題は遠ざかります。
杏の対人スキルの高さ、すごいですね。

サイドストーリー前編では、このやりとりを受けての杏との後日談が描かれています。
ここでの会話は非常に印象的です。

「大丈夫だった?」と聞く杏に対して、瑞希は「大丈夫」とは返しません。
それどころか、かなり迂遠な方法で大丈夫だったということを伝えようとしています。
なぜ瑞希はこんな方法をとったのでしょうか。

もちろん杏に「あまり触れないで欲しい」と暗に伝える意図もあると思います。ですが、それよりも大きいのが「自分自身が触れたくない」という感情です。

この感情、言語化がすごく難しいんですよね。すごく端的に言うならば、「日常生活にジェンダーの問題を積極的には持ち込みたくない」という感覚でしょうか。
ジェンダーの話題を日常生活に持ち込むとどうしても話が重くなってしまったり、価値観の擦り合わせみたいなことが起こってしまったり、自身と向き合わなければいけなかったりと、面倒が多いです。

また、今回の杏の問いには配慮の問題も含まれます。
イベントストーリー内でも言及されますし、後ほど詳しく述べていきますが、配慮に関してはかなりデリケートな問題です。
ここで「大丈夫だった」と答えることは杏の配慮を認めてしまうことにも繋がります。
ですが、杏と瑞希のような親しい間柄でそのような配慮の関係を浮き彫りにするのは瑞希にとって心苦しいことになるのではないでしょうか。

以上の感情から、瑞希はあえて明言を避け「絞られてる」ことは「バラさないでほしかった」と発言します。
それに対して杏は瑞希の意図を汲み取り、話の方向を転換します。この時の演出も素晴らしいので是非サイドストーリーでお読みください。

この一連のやり取りは親しい間柄でのジェンダーの後景化を色濃く映しています。

私の周縁の話になってしまうのですが、親しい友人とジェンダーについての話をすることってほとんどないんですよね。
考えてみると当然で、すでに出来上がっている友人関係でジェンダーというものは基本的に意識されないからです。より一般的に言うならば、出来上がった友人関係ではその人が持つ「特性」は軽視されて、その人の「性格」の方が重視されるようになるからです。

これに関しての少しの補足です。
例えば、AさんとBさんがいて、Aさんは何の特性を持っておらず、Bさんがオープンで暮らしているトランスジェンダーだったとします。
「Aさんってどんな人?」と聞かれた時は「優しい」だったり「怒りっぽい」といった性格についてを話すと思うのですが、「Bさんってどんな人?」と聞かれた際には「トランスジェンダーで〜」とその人が持つ特性から話してしまうと思うんですよね。
(トランスジェンダーはアウティングの問題を含んでしまうので、しっくりこない方は視覚障害等を当てはめてみるとわかりやすいかと思います。)

でも、当然ながら長く付き合えば特性よりも性格の方が重要になります。トランスジェンダーかどうかよりも怒りっぽいかどうかの方が圧倒的に問題です。
こういった経緯で親しい間柄ではトランスジェンダーという特性は次第に後景化していきます。

「特性」が後景化するほど親しい関係の中で配慮のためにジェンダーを前景化しようとする杏。それに対して瑞希は「自分と杏の仲だから、わざわざジェンダーを前景化する必要はない」という意も込めて返します。これを受けて、話を転換する杏もすごいですよね。お互いがお互いに「瑞希(杏)ならこれで伝わる」という信頼があるわけですから。

このたったスクショ4枚の会話には杏の恐ろしいまでのコミュ力が詰め込まれているわけですが、これに類似した配慮は以前にも見られました。

それは、「KAMIKOU FESTIVAL」のこの一幕です。

個人的には「お手洗い」、「着替え」、「お風呂」はトランスジェンダーの大きな障壁だと思っています。
これらは、どんなにジェンダーが後景化している関係でも否応なしにジェンダーを前景に追いやるからです。
ですが、杏のこの言葉は配慮を含みながらも、ジェンダーを後景に押し留めます。「人が少ない」から着替えの煩わしさはない、と直接触れずに瑞希が抱える問題に寄り添います。

そんな杏だからこそ、瑞希は伝えているのです。杏の配慮は完璧だから変にジェンダーを意識する必要はないよ、とも。

本筋とは少しずれますが、この配慮に関するあれこれ、第2話でかなり対象化されてて面白いんですよね。

例えばこれ。瑞希が「こはねは杏と文化祭を回りたいだろう」という意図を汲んで適当な理由をつけて杏たちと別れた気遣いを、こはねに完全に看破されてお礼まで言われています。
これ、個人的にはめちゃくちゃ気恥ずかしくなるんですけど皆さんはどうですかね。

さて、杏と瑞希のやりとりは、それ自体とても美しいものですがひとつだけ問題が生じます。

それはタブー化です。
この2人の間ではジェンダーの話はしない、という合意が暗に形成されることで杏は話題として出さなくなりますし、瑞希も話そうと思っても話しづらくなると思います。
そうなると、瑞希が「悩み」を抱えた時の相談相手としての役割を、杏は持ちづらくなってしまいます。
もちろん、タブーを乗り越えて悩みを話すこともあるかもしれませんが。

瑞希の周りの人間は、瑞希の「秘密」に対してそれぞれ立場が違います。瑞希の秘密も悩みも知る、「孤独を知る仲間」の神代類、瑞希の秘密は知るものの、悩みは知らない白石杏、瑞希の秘密は知らないが、悩んでいることは悟っている東雲絵名。

杏に見せる瑞希の一面は、性別の後景化した、「友人としての瑞希」なのです。

Ⅱ.配慮されているという感覚 〜性別の前景化〜

「配慮」という言葉がマイノリティや障害者に対して使われるようになって久しいですが、各々が配慮をどう解釈しているかというのは不透明なので、ここで一度定義をしておこうと思います。

障害者の権利に関する条約では、「合理的配慮」について以下のように説明されています。

「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。 

「障害者の権利に関する条約」 第二条 定義 外務省HPより(最終閲覧 2021/11/15)

ちなみに、「合理的配慮」は英語では「reasonable accommodation」です。
この文脈での配慮は「すべての人権及び基本的自由の享受」のための「必要かつ適当な変更及び調整」のことを指します。
ですが、日本語の配慮という言葉はそれ以上の含意があります。
例えば力が弱い人が蓋を開けようとするときに、力の強い人が代わりに開ける、仲の良い人同士が近くになるように席を組む、疲れている友達に席を譲るといった「相手の気持ちを推し量って相手のために行動すること」全般を「配慮」と呼んでいます。

障害者の文脈でもこれは同様で、人権及び自由の行使以外でも「障害者の気持ちを汲んで」その気持ちを害さないように「配慮」しようと呼びかけがなされているように思います。

異論等あるかもしれませんが、当記事では「配慮」を「合理的配慮」の定義ではなく、そこから拡張された「気持ちを汲み、相手のことを慮って行うこと」を「配慮」と定義します。

お堅い話はここで打ち切って「配慮」について語っていきます。

「配慮」というのは日常生活様々な場所で行われています。コンビニに入るとき後ろの人のためにドアをちょっと長く開けておいたり、エレベーターの開ボタンを押しておいたりと些細なことから、スロープの設置といった大きなことまで大小様々な「配慮」が日々行われています。

障害者を取り巻く「配慮」として最も可視化されているのは表記に関する問題でしょうか。
「障害」ではなく「障がい」と書くようにしようという風潮は多くの方が目にしたことがあるのではないでしょうか。(個人的にはどうでもいいことなんですが、人によっては気になるところでしょう)

この「配慮」に対しての判断は個々に委ねられています。
しかし、ここで大切なのは「障害」を「障がい」と書くのは「配慮」の文脈でしか行われないという構造です。
「障害」が「障がい」と書かれる時、書いた人間の「配慮」はこれ以上なく可視化され、それを読んだ人間は間違いなく「配慮」を感じます。そして、その可視化された「配慮」に対してどう感じるかは当事者に委ねられているのです。

トランスジェンダーに関してはここにもう一つの難しい問題を孕みます。それは「トランスジェンダーとして扱われるべきか」という問題です。
ジェンダーグラデーションという言葉もあるくらい、トランスジェンダーの性自認は多様です。そのため、トランスジェンダーとして扱われることを良しとする人もいれば、移行後の性別として扱われたいと感じる人もいますし、性別を後景化してほしいと願う人もいます。

この問題でよく話題にあがるのは性別欄です。

最近、性別欄に関しての議論も一つの転換を迎えていて、「男・女」選択制以外のものは、以前は「男・女・その他」という形式(今でもネット上のものだと集計上こうなることが多いですかね)でしたが、今では身体の性が重要になる場面以外では「未記入も含めた自由記述」もしくは「性別欄自体の削除」へと舵を切っています。

この自由記述形式、性別欄の削除、個人的にはめちゃくちゃ嬉しいです。

例えば、「男・女・その他」では「その他」を選ぶことは自身がトランスジェンダーであることを主張することになってしまいます。また、性別の記入の重要性が(戸籍性別を選ばなければいけないのか自認する性でいいのか)わからないので、自認する性を選びづらいんですよね。問題が発生したら嫌なので……

ですが、未記入が許されるものであれば重要性が低いことがわかるので自認する性を選べますし、書かないという選択肢も生まれます。
性別欄がないものは名前で判断されそうでやーだなーなんて気持ちも少し出ますが、ないならないでとても安心します。

そしてこれらの案の最も秀でている点は「配慮」が過度に可視化されないという点にあります。

性別欄の「その他」の項目は完全に「トランスジェンダーのため」に用意されています。ですが、性別欄が自由記述になっていたり、削除されている場合は「トランスジェンダーのため」かどうかはわからないんですよね。
だから、「トランスジェンダーとして配慮されている」という感覚から離れて性別欄を記述することができます。本当にこの形式流行ってほしいですね。

これと似たベクトルで個人的に助かっているものは「多目的トイレ」ですね。これが「トランスジェンダー用トイレ」みたいな名前になったり「オールジェンダートイレ」みたいな名前になったら個人的にはちょっと入りづらいです。そのトイレに入ったという事実でレッテル貼りされそうで。

でも多目的トイレなら色んな人が使うわけですし、誰が使ってもいいので、気楽に入れます。たまに女子トイレ、男子トイレ内に女子用男子用多目的トイレが設置されているところがあるんですが、あれやめてほしいですね。

直接「配慮」として表現されているわけではありませんが、瑞希は自分が秘密を伝えた後のニーゴのメンバーについて、「変わらず接していこうって思ってくれる」と表現しています。「変わらず接してくれる」ではないのです。

瑞希はニーゴのメンバーの「優しさ」を心の底から信じており、自分が秘密を伝えたとしても関係が壊れることを想定してはいません。

ただ、秘密を伝えてしまうと、秘密を伝える以前は自然に行われていた行為が全て「配慮」になってしまう、たとえニーゴのメンバーに「配慮」しているという気持ちがなくても、自分がそれを「配慮」だと受け取ってしまう。

瑞希とニーゴの関係が「配慮」の文脈に乗ってしまうのを瑞希は心の底から恐れているのです。

Ⅲ. 暁山瑞希とカムアウト問題 

今回記事を書くにあたって、「この記事で一区切りをつけよう」と考えていました。
やっぱりそうなるとタイトルもかっこつけたくなってしまうのが心情で、私の瑞希に関する最初の記事で、想像以上の多くの方にも読んでいただけた、「暁山瑞希とジェンダー問題 〜性別の後景化〜」を踏襲したタイトルをつけたかったんですよね。

なので記事タイトルを踏襲して、Ⅱ章、Ⅲ章でそれについて論じることにしました。

さて、「シークレット・ディスタンス」以降瑞希の問題はカムアウトを中心に回っていました。

瑞希にとってのカムアウトはある程度仲良くなった相手と深く、長く付き合うために避けては通れない、トラウマの付随した儀式でした。

これらの言葉からも瑞希は「本当の友達」になるためには必ずカムアウトを経由しなければいけないという固定観念を持っていることが窺えます。
「シークレット・ディスタンス」の記事でも述べましたが、この瑞希の考え方は秘密を言わないことに罪悪感を持たせて、「言えないということは信頼できていない」という構造であると、瑞希に誤認識させてしまっています。

これからも一緒にいるためには言わなくてはという焦りと、今の関係を変質させる怖さのジレンマによって瑞希は徐々に追い詰められ、思考の迷路から脱することはできずに、「ゆくさき」のことを考えることを放棄した瑞希は今までのように「今を楽しむ」ことだけに意識を向けるようになります。

ですが、その意識はいとも容易く崩れ去り、絵名とのショッピングの最中ですら、瑞希は「しんどそうな顔」をします。

注目するべきはこのシーンの少し前に絵名が「お手洗い」に行くと言っていることです。
当記事でも少し触れましたが、「お手洗い」はトランスジェンダーにおける大きな障壁の一つです。
身体、戸籍の移行が完全に済んでいない場合、「更衣室」、「お手洗い」、「お風呂」は自認する性として扱われない「特例的な場所」になってしまいます。

付き合いが長くなればなるほど、深くなればなるほど、これらの場所に近づいてしまう可能性は上がります。泊まりのイベントがあればこのどれかは確実に遭遇することになります。回避しようとしても、どれかは確実に回避できません。
そして、回避できなかったが最後、望まぬ形で瑞希の秘密は暴露されることになります。

このカタストロフィーを避けるために、瑞希はあらかじめカムアウトを行うのです。

ですが、その儀式を行わないまま深く付き合ってしまったニーゴのメンバーには、先述の通りカムアウト自体がカタストロフィーを伴ってしまいます。

いつか来る終わりを自分の手で行うか、それともその時をただただ待つか、真綿で首を絞められるような息苦しさの中で、瑞希はあがいていたのです。

話は少し変わりますが、瑞希のカムアウトに関する回想で少し気になる台詞がありました。

「勘違い」、いったい何を勘違いするのでしょうか。
これ、性自認の文脈でしか解釈できないんですよね。
「勘違い」は人の認知にしか使えない言葉ですし。

この言葉、すごいですよね。他人の心情を「勘違い」と言ってのける精神。
プロセカモブの中でも屈指の蹂躙性を持っていますね。

この回想からも、瑞希にとってのカムアウトは単なる起爆スイッチでしかなかったということがわかります。
瑞希の人付き合いは自然に浅くなっていき、カムアウトの必要も生まれないような刹那的な関係になっていきます。
こう考えると瑞希がインターネットで活動していたことも説明がつくんですよね。
現実で深い関係にならないなら性別なんて些細なこと、問題にすらなりませんから。

カムアウトしても受容してくれそうなニーゴの面々でも、「配慮」の影がチラついてしまう。瑞希にとってのカムアウトはそれほど大きく、ネガティヴな儀式だったのです。

自分のアイデンティティを他者が受け入れてくれない、それどころか他者の視線によってアイデンティティが揺るがされてしまう現実に対して、瑞希は「みーんないなくなれば」とひとりごちります。

「みーんないなくなれば」、カムアウトなんて問題は生じません。アイデンティティは誰にも揺るがされず、生きたい自分で生きることができます。そんな「叶うことない願い」が刹那的に達成される屋上という居場所を瑞希は「セカイ」と喩えます。

この場所が「セカイ」なら、その想いに呼応した「誰か」が現れるのが常でしょう。

瑞希にとってのその「誰か」は他でもない東雲絵名です。

誰よりも暁山瑞希を見て、誰よりも暁山瑞希のために手を差し伸べてきた彼女が、「暁山瑞希のセカイ」に闖入します。

これ、実は結構大きなことなんですよね。
「KAMIKOU FESTIVAL」の記事でも書きましたが、暁山瑞希とニーゴって現実世界の接点はなかったんですよね。
だから、瑞希にとって屋上はニーゴから離れるための場所でもあったわけです(誰もいないセカイが現実から離れるための場所になるのと同じ構図です)。
そんな屋上を東雲絵名は、侵犯するのです。

今まで屋上が何度も出てきたことも、東雲絵名が神高の夜間定時制に通っていることも、全てこのシーンのためだったかのような錯覚すら感じられる美しさです。

そして、この瑞希のパーソナルスペースの侵犯。カタストロフィーのために整えられた舞台、瑞希の秘密を暴露するための舞台を。

東雲絵名は全てひっくり返します。
あれほどまでに話すことを望んでいた東雲絵名が、あれほどまでに瑞希のことを一方的に救おうとしていた東雲絵名が。

話せないのは、「みんなを変えてしまうからではなくてみんなとの時間が大切だから」、カムアウトは「カタストロフィーの起爆スイッチではなくハッピーエンドの扉の鍵」。
そう。何もかもをひっくり返すのです。

瑞希が過去のトラウマから一つ一つ積み重ねていった、自分では抗いようのない固定観念を東雲絵名は全てその逆位置へと追いやります。

たとえ話さなくとも友達であるという楔と、話すまで「ずっと」一緒にいるという鎖を持ってして。

ですが、それでもなお、瑞希のトラウマはカムアウトを許しません。

この言葉は、瑞希を強く、強く糾弾します。
マイノリティという軸を後景化させてはくれません。

それでも本気で「ずっと一緒にいる」と言う絵名に対して、瑞希はこう独白します。

身体性別を否応なく押し付けられる時はいつか来てしまう、世界に対する諦観をあらわにする瑞希は、絵名が作った抜け道ーカムアウトしない道ーを選択しようとします。

いつか話してくれる未来のために、言わない自分を許してくれた、自分のタイミングで話すことを委ねてくれた絵名に対して、楽しい今を維持するために言わない選択をしようとする自分。

そんな「ズルい」自分を、ニーゴが大切になりすぎたせいで自家撞着で進めなくなってしまった自分を、絵名ならそんな悩みなど後景化して、当然のように「怒ってくれる」のではないかとそんな願いすらかけて。

そして瑞希はこう吐露します。

理解者が得られないまま、ずっと自分1人の足で歩んできた瑞希が初めて「他者に救われたい」という願いを溢すのです。

それも、「自分で行うのが当然」のカムアウトに対してです。瑞希の抱える問題の全てがこの言葉に集約されているようにすら感じます。美しさすら覚えます。

さて、この言葉には主に2つ願いがあると思っているのですが、願いの1つは「配慮」に関わってきます。
その1つ目の願いは、カムアウトによって自分がニーゴのメンバーに「配慮」を見出してしまうのであれば、「自分の知らないところでニーゴのメンバーが自分の秘密を知ってくれたら今のままでいられる」という淡い期待です。
ニーゴのメンバーは変わらなく接しようとしてくれる、その信頼から来る淡い期待です。

2つ目の願い……願いというよりは祈りでしょうか。
これは、「カムアウト」それ自体に関わってきます。

カムアウトの際には、話すタイミングや話す内容を自分で決めて、他者との場を設けなければいけません。
そして、カムアウトは必ず、関係性の変質を生みます。

恋愛感情の告白、良い結果を生むかもしれない告白ですら躊躇われることも多いのですから、カタストロフィーを生むかもしれないカムアウトが葛藤なく行われるはずはありません。

再三になりますが、瑞希にとってのカムアウトは避けては通れない、儀式的行為なのです。
だから、できることなら「誰か」が代わりにしてくれればいいのに、そう願うことは自然です。

ですが、白石杏と東雲絵名の邂逅で瑞希は「バレ」るということに危惧を抱いていました。

瑞希は、誰かにカムアウトされるのを怖がっているのに、「誰か」が自分のカムアウトを代わってくれればいいのにと矛盾した願いを抱えているのです。

そう、瑞希は「誰か」の具体的な人物を想定していないのです。想定しているのは誰でもない「誰か」、神のような、ゴドーのような実体のないそれ。

もしそんな存在がいるのであれば、抗いようのない力を持ってして、自分を、自分の周りを全部都合のいい方向に押し進めてくれればいいのに。

そんなささやかな祈りが、今までずっと、1人で歩いてきたハーミットからこぼれ落ちるのです。

「いっそ、ボクの代わりに、
誰かが全部話してくれたらいいのに」

あまりにも夢物語な願い、非現実的な祈り。
ですが、それを抱くことは決して否定されません。

屋上は、暁山瑞希のセカイなのですから。

おわりに

メインストーリーから始まった暁山瑞希の物語は「ボクのあしあと キミのゆくさき」でひとまず区切りがつきました。
絵名と瑞希の関係は「話してくれるまでずっと一緒にいる」という言葉で、言う、言わないの軸から解放され、まふゆと奏のそれとはまた違う形で繋ぎ合わされました。

今まで私の記事を読んで瑞希の「あしあと」を一緒に辿ってくださった方々、記事をスキしたり、Twitter等で感想を呟いたりしてくださった方々、逐一チェックしては本当に励みになっていました、ありがとうございます。気づき、共感、反感、違和感、どんな感覚でも瑞希のことを考えるきっかけになっていたら幸いです。

また、一連の記事を書くきっかけとなったまといちゃん、毎記事読んで感想をくださったTwitterのフォロワーの方々、noteのフォロワーの方々、noteの方でコメントを書いて下さった方、本当にありがとうございます。飽き性の私がここまで書き続けられたのはひとえに待ってくださったあなた方のおかげです。
これからも一緒に暁山瑞希に狂いましょう。

ニーゴのこれからがどうなっていくのかは分かりませんが、また、瑞希の「ゆくさき」でお会いしましょう。

瑞希の生きる道に幸せが在りますように。

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