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 悩み好転!『禅語の智慧』の物語 No.48

【健康管理編】


2024年4月7日(日)

悩み事:身体の不調と向き合う、日々の挑戦

目次
1、あらすじ
2、禅語「「坐忘」(ざぼう)」の解説

物語のタイトル:禅の風に吹かれて
1、序章:裕次郎とまき子の日常
2、挑戦:持病との闘い
3、禅語「坐忘」との出会い
4、行動の変化:食事と運動
5、金継ぎへの情熱
6、結末:変化への道
7、総括:禅の智慧に学ぶ
8、まとめ
9、ごあいさつ
10、柔海 剛山(じゅうかいごうざん)の『禅語の俳句』

1、あらすじ
72歳の裕次郎は持病の改善に奮闘中。彼と75歳のアスリート妻・まき子は、健康管理と夫から教わる金継ぎに情熱を注ぐ日々。ある日、裕次郎は禅の教え「坐忘」に出会い、自我と欲望からの解放を学び、生活に大きな変化をもたらす。この物語は、二人が心身の健康を改善し、人生を豊かにする人生を描く。

2、坐禅「「坐忘」(ざぼう)」の解説
「坐忘」は、禅の用語で、坐禅を組んで全ての執着から心を解放し、自我と欲望を忘れる状態を指します。この概念は、心を無に帰することで真の自己に到達し、内なる平和を得るための修行とされています。「坐忘」によって、日常の煩わしさから離れ、自己の本質と深く向き合うことが可能になります。

物語のタイトル:禅の風に吹かれて

1、序章:裕次郎とまき子の日常
裕次郎は72歳、退職後の静かな生活の中で、年金とビル清掃のパートタイムでの収入に頼っていました。一方、彼の妻、まき子は75歳になるものの、彼女の活動は年齢を感じさせません。マラソンクラブとバドミントンクラブに所属し、毎週のように練習やイベントに参加していました。裕次郎はそんな彼女の元気さにいつも励まされ、自分も健康でいなければという責任感を持っていました。まき子は裕次郎の健康を懸命にサポートし、彼の食事に気を使い、適度な運動を促していました。

2、挑戦:持病との闘い
ある日、裕次郎はまき子と一緒に病院を訪れ、主治医からの診察と栄養カウンセリングを受けました。この日のために裕次郎はいくつかの血液検査を受けており、結果は複雑でした。コレステロール値はようやく基準値範囲内に収まったものの、複数の数値が高止まりであることを指摘されました。医師からは体重の減量と栄養カウンセリングから食事内容の大幅な改善を強く勧められました。まき子はこの指導を真剣にメモし、裕次郎の健康改善に向けた新たな決意を固めました。

3、禅語「坐忘」との出会い
裕次郎が持病の改善に奮闘する中、ある日彼は菩提寺で開催された坐禅の体験型講座に参加することにしました。この体験型講座で「坐忘」という禅語に出会った裕次郎は、その意味と深さに心を奪われました。坐禅を組んで自我と欲望から解放されること、心身を忘れて真の自己に至ること。この教えは、彼にとってただの健康改善以上のものを示していました。それは、人生のあり方、物事への向き合い方を根本から見直すきっかけとなりました。

4、行動の変化:食事と運動
「坐忘」の教えを胸に、裕次郎とまき子は日常生活において大きな変化を起こしました。まき子は医師からのアドバイスに基づき、食事内容を一から見直し、炭水化物と脂質を控えめにしたバランスの取れた食事を用意し始めました。裕次郎もまた、通勤を徒歩で続ける中で、より負荷のかかる様に意識して歩くことに努め、休日には歩く距離を増やすようにしました。このようにして少しずつ、しかし確実に体重は減少し始め、持病の数値も改善の兆しを見せ始めました。

5、金継ぎへの情熱
また、裕次郎は金継ぎに対する情熱も新たに見出しました。彼はこの技術を副業としてでも生かせるよう、磨きをかけ始めました。まき子もまた、この技術に興味を持ち、夫婦で共通の趣味を持つことでさらに絆を深めました。送られてくる欠けたり、割れたりした陶磁器を金継ぎで、美しく修復していく過程は、二人にとって心の平穏と集中力を高める時間となりました。

6、結末:変化への道
数ヶ月後、裕次郎とまき子は次の診察日を迎えました。彼らは改善された生活習慣と、「坐忘」の教えに基づく精神性の変化を医師に報告しました。診察の結果は彼らの努力の成果を物語っていました。数値は顕著に改善され、医師もその成果に驚き、二人の取り組みを高く評価しました。

7、総括:禅の智慧に学ぶ
この物語は、禅語「坐忘」の智慧を通じて、裕次郎とまき子が身体と心の健康をどのように改善していったかを描いています。自我と欲望から解放され、真の目的に集中することの大切さを、彼らは日々の生活の中で学んでいきました。この物語から、私たちも小さな変化を積み重ねることの重要性、そして何よりも自己と向き合い、心を豊かに保つことの大切さを学び取ることができます。裕次郎とまき子のように、一歩一歩着実に前進し、健康で充実した生活を目指しましょう。

8、まとめ
裕次郎とまき子は、健康と人生の質を高めるために禅の教え「坐忘」を実践しました。持病の改善、食事と運動の見直し、共通の趣味である金継ぎへの情熱を通じて、夫婦は身体と心の健康を見つめ直しました。これらの教訓は、二人にとって自我と欲望からの解放、そして真の自己への回帰を意味しました。最終的に、日々の小さな変化が彼らの生活を豊かにし、深い満足感をもたらすことになりました。

9、ごあいさつ
親愛なる読者の皆様へ、心と身体の経過を描いたこの物語を通じて、禅の教え「坐忘」がもたらす平和と調和を共に感じていただければ幸いです。裕次郎とまき子の歩みが、皆様の日常に新たな光をもたらすことを願っています。

10、柔海 剛山(じゅうかいごうざん)の『禅語の俳句』
        禅語の「「坐忘」(ざぼう)」に関する俳句

          雲を超えて 自我忘れる 禅の風
「雲を超えて 自我忘れる 禅の風」の俳句の解説
この俳句は、内面の静けさと自己超越の人生を象徴的に表しています。禅の風が心を通り抜け、自我を解き放つ瞬間を捉えています。

雲を超えて:「雲を超えて」は物理的な世界を越え、精神的な高みに達することを示唆しています。雲の上には常に晴れ渡る空があり、限界を超えた先の澄明(ちょうめい)な心境を表現しています。

自我忘れる:「自我忘れる」は、禅の修行において至る「無我」の状態を指します。日常の自我や執着から解放され、真の自己に至る禅の実践を象徴しています。

禅の風:「禅の風」は、見えないが確かに存在する禅の教えやその影響を意味します。この風は心を通り抜け、内面の変化を促す力を持ち、禅の智慧を静かに伝えています。

2024年4月7日(日)
柔海 剛山 

【追記】
当サイトは個人的な見解や意見に基づいたものでは一切ありません。
多様な文献や資料、そしてインターネット上の情報源を参考にして、可能な限り柔軟かつ包括的な観点から、情報を物語化して提供することを目的としています。

『柔海 剛山流(じゅうかいごうざんりゅう)あるがままの俳句』とは
「あるがまま」という表現は、曹洞宗の開祖である道元禅師が提唱した生き方の哲学から来ています。この言葉は、物事をそのままの姿、自然な状態で受け入れ、現実を直視することの重要性を強調しています。私の詩作において「あるがままの俳句」という名前を用いるのは、この禅の教えに基づき、自然体でありのままの感覚や感情を詩に昇華させるためです。

伝統的な俳句は、その文字数や季語などの厳密なルールによって特徴づけられますが、現代ではこれらのルールに囚われない形式の俳句も存在します。これは「自由律俳句」と呼ばれ、従来の5-7-5の音節制限や季語の必須性を取り払った形式です。

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