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子供と「万引き家族」を見ていて…

先日「万引き家族」を子供がTVで見ていたので、途中から一緒に見た。DVDを借りてきた時には頑なに見ない、と言っていたのに、自分からTVを見ていたのでよかったと思った。血が繋がっていない家族?と最初から質問、ん、見ていてご覧、と促す。

社会の中の枠組みから外れてしまって生きていることで、不正や犯罪とされるものが重なってしまう連鎖が悲しい。息を潜めるように生きて、当たり前の生きる権利を主張できない人達がいる。でもこれは社会の現実だと思う。例えば、誠実に働いていても税金を払えないことは、悪ではないのに、そのことによってますます生きづらくなっていく。

義務と権利は本当はイコールではない。生きる権利は生まれた時から神様が与えて下さったもの。庶民の一人一人は生きることの大変さに直面して、今日明日を繋いでいる。
映画で万引きをされる店も、日々の仕入れや経費があり利潤なんてほんの僅かであって、商売を続ける費用になっていくのであり。皆、生きるのに精一杯の世の中だ。皆が同列に、生きることは大変なことをしみじみ感じて。

映画のラスト、警察の取り調べ場面で、公務に守られている人達の質問の言葉は、生身の傷ついて生きている人との狭間に、無意味な形として落ちていく。人の心に流れている普遍的な、だが社会的法則からは掬えず落ちてしまう人間的な深い感情が際立つ。映画ゆえに、言葉にできない中に描写され得る、心に深く影を落とす不条理が切ない。
法のもとには通用しない現実の人の抱えている思い。虐待されていた子を保護したと思っていても、社会的には誘拐となり。

じゅり(りん)に、あなたは何と呼ばれていたかと問われる。「お母さん、ママ?…」それは心の通わぬ法的な問だ。じゅりにとって信代は母親以上であり、守ってくれる人、そばにいたい人、抱きしめてくれる人、安らぎを与えてくれる母性であったことだろう。「なんだろうね…」、信代の言葉は悲しい。だが、じゅりの心を包んだ感情は、呼び名に当てはめらない、愛に覆われた優しい感謝の念だっただろし、生きることに繋がる救いの手であっただろう。

子供に、世の中には社会制度の外側で、不条理で生きている人がいるということを、ポツポツ話しながら見たのだった。

#エッセイ #詩

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