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第1回歌舞伎町文学賞 大賞受賞作 『サビオ』 雨宮美奈子

 サビオ   雨宮美奈子


 午前3時。今は深夜なのか、もうすぐ朝なのか。
 この時間に歌舞伎町ゴジラ前の『きづなすし』のカウンターで、眩しい蛍光灯に目をチカチカさせながら食べる寿司は、なぜだか妙に美味しい。

「ねえ、知ってる?」

 いくらの軍艦の上に乗るいくらだけを、なぜか一粒ずつ箸でちまちまと食べながら、マイコは本当にどうでもよさそうに、横にいる僕に目線も合わせずに話し始めた。

「この店の向かいにさ、リンガーハットあるじゃん。ゴジラ前のとこ、小さいけど」
「うん、リンガーハット、あるね」
「そこの店舗だけさ、全国のリンガーハットで唯一、前払い制らしいよ。他の店は全部、最後にお会計なのに」
「へえ、そうなんだ。なんでだろう」
「あはは、そんなの決まってんじゃん、このへんは食い逃げするやばい人が多いってことっしょ」

 なぜだか嬉しそうに笑いながら、マイコはついにごはんと海苔だけになった軍艦をぽいっと一口で食べきった。

「そっか、食い逃げする人が多いのか」
「うん、あと酔っ払いすぎて寝ちゃって払えなくなるやばいやつとか阻止するためだと思うよ。金曜夜とか多そうじゃん?」
「なるほどねぇ」
「この街、そういう街だもん。誰のことも信じちゃいけないよ、ほんと。リンガーハットの数百円すら信じて食べさせられないってウケるよね。ま、そんなこと知ってて東京まで出てきたけどさ」
「そうなんだ。あ、そういやマイコちゃんってーーーー」

 あ、源氏名を名乗る水商売の人にプライベートなことって、聞いていいんだっけ。でも、これぐらいは、いいんだっけ。ちょっと躊躇しながら、でも僕は思い切って聞いてみた。

「ーーーマイコちゃんって、どこ出身なの?」
「……え、聞きたい?」

 少し顔を歪めながら、でもマイコは淡々と答えた。

「私ね、北海道だよ、超田舎。北海道は北海道でも、札幌じゃなくて室蘭(むろらん)ってとこなんだけど」
「室蘭?」
「ね、聞いたことないでしょ。札幌からも遠いし、漁師になるしか仕事がない、マジで田舎の小さい街なの。みんな兄弟も多くてさ、本当に超田舎。なんにも、なんにもないところだよ」
「そうか、そこから出てきたんだ」
「うん、小学校3年生ぐらいかな。もうそれぐらいのときから、早くこの町を出ようって、出なきゃ窒息するって思ってた。だから今、歌舞伎町にいるのは幸せなんだよ」
「そうなんだ」
「明け方はゴミの匂いがめっちゃするし、パンツ丸出しで泣いている子とかいるけどね、歌舞伎町。ウケるよね、最初はびっくりしたけどね」

 マイコはそう言いながら、次は注文した味噌汁の具を箸でつついていた。
「最初はね」
 こちらが何も言わずとも、彼女は話し続ける。

「最初はね、札幌に行ったんだ。高校出てすぐに、とりあえずキャバ嬢になりたくて」
「うん」
「だけどさ、店の選び方とかも上手にわからなくて。歩いていたらスカウトに声をかけられてさ、最初のひとについていったの。そしたら、キャバクラって言われたのに、そこセクキャバでさ」
「ああ、おっパブってやつかな?」
「それそれ。ってか、おっパブって。林さんって、古い言い方すんだね、ウケるんだけど」

 放置された味噌汁の湯気が揺れている。少しずつ、冷めている。

「まあ、そこでしばらくは頑張ったんだけど、知らないおっさんにおっぱい舐められるのってマジで精神的にやられるんだよね。だったら最初から覚悟して風俗行くっての、みたいな気持ちになるし」
「そうだね」
「で、キャバ嬢が読む雑誌みたいなのがあるんだけど、そういうの読んだりさ、少しずつ知っていって。すすきのより、歌舞伎町がいいなーって思って」
「それで出てきたんだ」
「うん、19歳のときかな、そこからも騙されたりしたけど、でもやっぱり北海道なんかよりこっちのほうがいいよ」

 僕は注文していた刺身に、箸をつけずにいた。
 刺身は冷めないけれど、ずっと冷めたままだけれど、彼女の味噌汁が冷めていくのは少し気がかりだった。

「北海道に帰りたいって思うこと、ないの?」
「ないね、まーったく、ない。こんなにいい場所を離れる理由とか、全然見つからないし」
「ほら、雪が恋しいとか、さ」
「恋しいわけないじゃん、こっちの人にはわからないかもしれないけど、雪かきとかただの地獄だよ。GLAYの歌じゃあるまいし、雪が恋しいとか言わないって」

 ここで僕は、思わず笑ってしまった。

「あはは、おもしろい」
「……なにが?」
「マイコちゃんさ、24歳って言ってたけど、それ嘘でしょ」
「……え、なんで?」
「24歳の子、GLAYとかパッと出てこないよ。それにさ、」

 僕はついに刺身を一切れ箸で取り、醤油をつけて口に運んだ。うまい。

「さっきは店では気がつかなかったけど、この寿司屋の蛍光灯の下で見るとちょっとこう、大人びてるというか」
「なにそれ、老けてるって言いたいわけ?」
「いや、違う違う。でも、24歳の幼さはあまりないかな、って」
「……まあ、わかってるよ。初回のお客さんに言うつもりはなかったけど、でも、そうだよ。私は24歳じゃないよ」
「だよね、じゃあ、本当の年齢は?」
「言うわけないじゃん。ほうれい線にたまったファンデーションの崩れた感じで察してよ」
「はは、なるほど。君って思った以上に面白いね」

 笑っていると、彼女もまた少しずつ表情がやわらかくなっていくようだった。
 不思議だ、老けているとわかった彼女のほうが、確かによく見るとファンデーションの粉が毛穴に入り込んでいる感じが見える彼女のほうが、なんだか可愛く感じてしまう。
 キャバ嬢である彼女を飛び越えて、本物の源氏名ではない女の子に触れたような気がするからなのかもしれない。

「本当のことは言わなくていいよ、だって君はキャバ嬢なんだから。」
「ありがと、でも他にもう嘘はないから大丈夫。彼氏もいないし。あと、一応は平成生まれだからね。あんまり上に見ないでね、24歳よりは上だけど、そこまで上じゃないからね」
「はいはい」
「初回からアフターする客とかぶっちゃけ最悪って思ったけど、ここの寿司美味しいし、林さんいい人だし、今日来てよかった」

 ここでようやく、マイコは顔をきちんと横に向けて、僕の目を見た。

「林さん、ありがと。私の年齢関係なくてもいいなら、これからもよろしくね、店にもたくさん、来てね」

 眩しい笑顔だ。よく見ればつけまつげが端から取れかかっている、でもそれすらちょっと可愛い。運命すら感じる、恋に落ちるってこういうときに言うのかもしれない。
 絶対に通うよ、あと実は僕ってーーーそう言いかけた瞬間、マイコは持っていたハイボールのグラスをするりと手から落としてしまった。

「あっ」

 ふたりの声が重なり、テーブルの上で静かにグラスは割れた。がちゃりと鈍い音がする。
 溢れた液体がテーブルの上に瞬時広がり、たちまちテーブルの淵に到達する。店員さんが「そのままにしてください!」と叫ぶ声が聞こえる。

「ごめんなさい!」

 そう叫んだマイコの手を見ると、指からじわっと赤いものが広がっていた。

「マイコちゃん、切ってる!」
「え、うそ。あ、ほんとだ」
「大丈夫? マイコちゃん、サビオは持ってる?」

 きょとんとした顔で、マイコはこちらを見る。

「さびお?」
「そう、サビオ。あれ、サビオ、わからないの?」
「うん、なにそれ。え、薬の名前?ウケるんだけど」

 この瞬間に僕は突然、小さな失恋をした。信じちゃいけない女がいま、目の前にいることにやっと気がついた。
 確かに彼女はさっきこう言ったんだった、ーーーこの街では。誰のことも信じちゃいけない。リンガーハットの数百円すら。

「ううん、なんでもない、そう薬の名前だよ」
「そっか」

 店員がグラスを手際よく片付ける横で、じゃあもう居づらいし、ちょうど出ちゃおうかと二人で店を出ることにした。
 お会計は、4800円ちょっと。1万円で支払うと5000円札のお札が返ってきたので、そのままマイコに渡す。もう少し稼げるようになれば、もっと豪快に渡せるようになるんだろうけど、そんな未来は僕には見えないな、と思いながらお金を差し出す。

「タクシー代、これで足りる?」
「うん、充分すぎるくらい。ありがと!」
「じゃあ僕は、こっちだから。今日はありがとうね、じゃあね」

 そう言って去ろうとすると、後ろからマイコの大きな声がした。

「林さん! また、会えるよね?」
 
 振り返って、僕は言う。
「もちろんだよ、また来週店に行くよ!」

 そう言うと、マイコは嬉しそうに笑って手を振っていた。額縁に飾っておきたいほど、抱きしめたいほど可愛い笑顔がそこにはあった。ああ、好みだ、と反射的に思ったのは事実だ。

 タクシーに乗るとすぐに僕は、スマホを操作してマイコをブロックした。
 僕は、二度とあの店には行かない。マイコにも、会うことはないだろう。
 だってこの街では、誰のことも信じちゃいけない。こうやって、傷ついてしまうから、だからやっぱり嫌なんだ。

 北海道の小さな港町である室蘭生まれの僕は、ちっとも寒くない東京の夜空を見上げた。東京の人はこれで寒いって言うんだから困る。
 ゴミくさいこの街には、室蘭のような港町の海の匂いは決してしない。

……………………

[サビオ (Sabio)]
絆創膏(ばんそうこう)のこと。主に北海道地方で使われる呼び方。東北や中国地方では「カットバン」などとも呼ばれる。



第1回歌舞伎町文学賞にて、大賞を受賞させていただいた短編作品です。

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