見出し画像

テクニシャンの引退

 6月18日、試合終了のホイッスルがなったと同時に、17年間の現役サッカー人生に終止符を打った男がいる。そう俺だ。板倉阿蓮のブログ愛好家がいるとするならば、いるとするならばとても驚いたと思う。報告が遅くなってしまい申し訳ない。様々な理由から現役サッカー選手としての人生を同期の皆より早めに終えることを選択した。部のブログテーマは前期リーグを振り返るだが、自分は引退した理由、そして17年間のサッカー人生を少し振り返りたいと思う。

サッカーをしている1番小さい頃の記憶があるのは、幼稚園生の頃。THE お団子サッカーのど真ん中で、母や先生の声援を受けて、お団子の中に突撃するフリをして、するフリをして、、、

その中に突撃するのをとても怖かったのを覚えている。俗に言うビビりである。今の実力ならビビることは無いし、幼稚園サッカーで無双できると自負している。この体型のまま、実力のまま幼稚園サッカーに戻りたいと時々考えたりする。結構本気で考えている。

小学生の頃は打って変わり、少し顔を覗かせたサッカーセンスと、恵まれた体格で自信に満ち溢れていた。今見てもあの頃がサッカー人生の絶頂期であり、自分自身も本当にプロサッカー選手になれると思っていた。

そしてサッカーだけでなく人生を変えた中学校、高校の選択。小さい頃からの夢であった全国高校サッカー選手権に出場する為に、家から片道1時間半かかる中高一貫のかえつ有明に進学した。どういうチームでやりたいのか。なぜ部活なのか、なぜ中高一貫でそこの学校なのか。本気で考えた。
逆算というものを覚えた自分は、サッカーで成功する為に、頭がとても良く無い自分なりに本気で勉強した。
大嫌いな勉強でさえもサッカーという大好きなスポーツに繋がるならと本気になれた。

入学してからも自分が選んだ学校、そして最高の環境に仲間。始発で行く朝練、朝練が無くなっても自主的に行う自主練、家に帰ってからも自主トレーニングをした。生活のほとんどがサッカーで埋め尽くされていた。6年間その生活を送り続けた。


それでも結果はなかなか出なかった。当初は安定していたが、時間が経つにつれ出れたり、出られなかったり。それでも諦めず努力し続けた。

6年間その生活を送り続けた

とあっさり書いたが、本気で誰よりも努力した自信があった。サッカーに対する熱量や本気度は中高の同期に聞いても自分が想像している回答が返って来ると思う。

恐らく努力の仕方を間違ったのだと思う。もっと効率的に、最短でうまくなれる方法があったと思う。しかし、根性というもの、努力し続けるという自分の根底にあるものは、この時期に出来上がったと思う。

文字に書くとあっという間であり、あっさりであるが本当に苦しい中高時代だったと思う。
大学サッカーで最後、一花咲かせようと大学2年生で入部を決意したが、自分の大学サッカーは儚く脆かった。

大学1年生はキャンパスの事情により部活に入部できず2年生からの入部となった。
1番苦しかったのは自分の武器だと思っていたものがうまく表現できないそして通用しないことだった。自分の武器とは。

目の前の敵を剥がせること

中高の監督にこれがお前の武器だと教えてもらってから、これが武器だと思っていた。実際、アジリティには自信が多少あったし、対峙した相手は剥がせると思っていたところはあった。
それが大学サッカーになるとほとんど活かせる場面は無くなった。やはり1年半というブランクは大きかった。なにより怪我に苦しめられたと思う。思うように体が動かない。頭で思っていることに対して体が追いついてくれない。
これが歳を取るということなのかと20歳にして痛感した。(絶対にまだ早い)

現役サッカー人生に終止符を打った理由は大きく2つある。

まず怪我である。元々怪我体質の自分であったが、大学サッカーでは持病のヘルニアに苦しめられた。好きなサッカーを気持ちが良くできないってこんなにも苦しいものなのかと。状況は全く違うが、足に爆弾を抱えながらプレーしているプロ選手へのリスペクトを改めて抱いた。調子が良い時に怪我をするのが自分だと思ってしまう程、中学時代から怪我をしていた。まぁそれも自分らしさなのかと今なら思える。

1番大きな要因はサッカーに対する気持ちである。今年の序盤にあった彩の国カップ。あの大会で自分の心の何かが消えてしまった。自分の良さは努力し続ける力、貪欲さ、競争心。それが空回りする事もあったが、自分を突き動かす大事な長所だった。それが無くなってしまい、彩の国カップが終わってから、

もう引退だ。ここまでだ。

という感情が湧き出てきた。湧き出てきたからといって引退をすぐに決断できた訳では無い。
心のどこかでまだやれるんじゃ無いか、もしかしたらまだ成長できるぞ と囁いて来る自分もいた。
自分への僅かな希望と可能性。
もうサッカーから離れたいという気持ちと、まだやれるという気持ちが毎日のように入れ替わる浮き沈みの激しい毎日を送ることになってしまっていた。毎日の練習が中途半端になってしまっている。
そう気がつくと、気持ちの整理は少しづつ進んでいった。
大好きなサッカーに対して中途半端な気持ちになってしまっているのなら、もうそれは辞める時だと。
そう考えるようになって行った。

数ヶ月間悩んだ末、引退という形を取ることにした。本当は完全にサッカー部から籍を外そうと考えていたのだが、主将をはじめ監督、同期の皆と話し合いをしていくうちに、籍を外そうという気持ちが変わり、ある感情が芽生えた。

このチームのサポートを出来る限り使用しよう

チームの目指すべき場所は北関東2部リーグ優勝であるが、選手のメンテナンス、ホームページリーダーとしての仕事。目標を達成する為に何か少しでも力になりたいと思うようになった。それはチームや仲間に対する感謝という気持ちがあったからこそ、芽生えた感情である。本気で辞めるのを止めてくれた主将、親友にはとても感謝している。ありがとう。

同期のみんな


引退を選んだ理由は細かく説明するとまだあるのだが、、きっと読者も疲れているだろうからここら辺にしておこうと思う。


最後に。
自分は恵まれた環境、健康な体で、一生懸命サッカーに向き合えたのには長い間サポートを続けてくれた人の存在がある。

お母さんである。

いつかお袋と呼びたいと思っているが、、なかなか恥ずかしいものである。
試合の度にお弁当を作ってくれたり、毎食の栄養を考えてくれたり、スパイクを買ってくれたり。小さい頃は送り迎えに試合観戦。本当に長い間たくさん支えてもらった。
お母さんがいなかったら、お母さんがお母さんでなかったら。きっと自分はサッカーを続けられていなかっただろうし、こんなに長い間続けることは無かったと思う。勿論、サッカーは自分の為にやっていたが、いつの日からか、いや、最初からかもしれない。

サッカーでお母さんを喜ばせたい。俺のプレーでお母さんが湧いてほしい。

そんな風に思っていた。だからこそ現役サッカー人生の最後の試合を見に来て欲しかった。(当初は観に来れる予定であったが、その試合が延期になってしまい、6月18日は北海道旅行真っ最中だった)
自分の人生において最も影響を与えてくれた人。苦しい時にはいつもお母さんが後ろから支えてくれて。歳を取り、大人になればなるほどお母さんの存在、偉大さが身に沁みて感謝の気持ちでいっぱいである。
サッカーでは叶わなかったお母さんへの恩返しを、これからしていきたいと思っている。
本当に17年間、サポートしてくれてありがとう。


また、自分のサッカー人生において出会った仲間。最高の思い出をありがとう。
そしてサッカーの神様。選手としては何も残させてくれなかったけど、人として成長させてくれてありがとう。夢を見させてくれてありがとう。来世はテクニシャンのレフティーで身長は178cmでお願いします。

高校も大学も、引退試合はとても思い出深い。きっとあんなに大勢の人に

あれん

と呼ばれることはもう無いのかと思うと少し寂しい。自分の目指すべきサッカー選手像に

愛される選手

というのが密かにあった。少しでも近づけたのかなと思うと少し報われた気がする。

高校の引退試合


17年間、本気でサッカーをした日々は一生の財産である。
お疲れ様自分。これからは太らないように頑張ろう。

この記事が参加している募集

私のプレイリスト

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?