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平安京を歩く

碁盤の目の暮らしと、残ったもの、滅びたもの

 1994年、地下60cmのところから平安京大極殿の基壇が発掘された。少し掘削すれば1200年前の遺構が出土する、京都という土地のポテンシャルは驚異的である。今は鉄柵で囲われた空地に石碑が建つだけだが、確かにそこに皇居と政治の中心地があった。大極殿を含む朝堂院は、規模の縮小こそあれ平安神宮を訪れることでその姿形を目にすることができる。
 では、平安宮の外側の碁盤の目では、誰がどのように暮らしていたのだろうか。そして、桓武天皇の遷都から1220年余り、残されたものと滅びたものの「差」は何だったのか。以上の2点について考察する。

皇室と官僚と政治家の都

 遷都当初、まず移転してきたのは政務に必要な親王・公卿・女官・官人たちで、彼らには身分に応じて宅地が班給された。宅地班給は条坊制による1町を基本とし、1町は四方が大路もしくは小路に面した約120メートル四方の範囲であり、最小単位は1/32町である。三位以上の公卿などは1町まるごと班給された。広大な敷地に寝殿造の邸宅と広い庭園を配した、優雅な日常があったのだろうと想像する。しかし最も多かったのは1/8~1/4町の班給で、下級官人の宅地だったという。多くの住民は住居の他に菜園を造り食材を自給自足していた。このように、遷都時の住民層は官僚と政治家がほとんどではあったが、彼らの暮らしを支える商人や職人が暮らしていたことも事実である。
 左京・右京で月の前半・後半に分けて官営市場が設けられ、共通取扱物品の土器、綿、油をはじめさまざまな生活必需品が販売された。795年に建てられた市比売(いちひめ)神社が、今でもその名残りを留めている。また、西陣織、京漆器など、現在でも国内最高水準の技術を誇る産業の発祥が、身分の高い人が集住する遷都間もない頃というのも納得がいく。

西寺はなぜ滅びたのか

 条坊制の宅地区画と並び、平安遷都の頃から残っている建築物が「東寺」である。国営の官寺として建てられた東寺、西寺のうち、東寺だけが今も存在する理由は、のちに空海による真言宗の寺院になったからに他ならない。一方、官寺であり続けた西寺は国の財政難がひびき衰退し、1233年の火災で、最後まで残っていた塔が焼け落ち完全に姿を消した。空海が西寺を与えられていたならば、現存するのは西寺だったかもしれない。そう考えると西寺はただ運が悪かったということになるが、嵯峨天皇が空海に西寺を与えるという可能性は低かったように思う。
 日本では古来より日昇の方角である東が優位とされてきたことから、東寺の授与は空海への敬意と期待を表す「必然」だったと考える。

西側の斜陽

平安京復元模型:中央の朱雀大路を挟み、向かって右が左京、左が右京(北にある内裏“天皇の居住地”から見た「左右」)。

 西寺に限らず、西の方から廃れていくことは平安京全体の傾向であった。最も大きな理由は、地理的な条件だろう。京都市平安京創生館の平安京復元模型を見ると、右京の南西部は桂川沿いの湿地帯で、そもそも居住地には不向きだったことが判る。宅地や道路を整備するには嵩上げ工事も必要だったはずなので、桓武天皇が平安京の造営を中止した805年は、このあたりは未完成だったことも考えられる。遷都後約200年で右京は廃れ、みやこ全体が北西に移動し長方形ではなくなった。しかし、桓武天皇が心血を注いで築いた平安京が、今の京都の原点であることは間違いない。

参考文献
井上幸治、平安神宮編『桓武天皇と平安京』八木書店、2012年。
井上満郎『桓武天皇と平安京』吉川弘文館、2013年。
西山良平、藤田勝也『平安京の住まい』京都大学学術出版会、2007年。

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