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ただ、四つん這いで歩いてます

 「四つん這いで歩く」という言葉は私にとってとても違和感のある言葉だった。つまり、文法的な意味で。四つん這いの状態で前へ進む行為は、「歩く」というより「這う」ことに近いと思ったからだ。なので、Doのディスコードにこの議題が上がった時、私は行為自体より文章に対する疑問を持ってしまった。四つん這いで世の中を進むというのは、果たして歩くことなのか、それとも這うことなのか。
 歩くことと這うことの違いは何だろうか。姿、利便性、社会的認識など、どの観点から見ても、「歩く」が有利だ。人類学的にも、人間は様々な利点を考慮して二足歩行をするように設計されてきた。そうした発展の果てに、現在の人類がいるのだ。人類の発展について考えると、胸がいっぱいになる。例えば、私たちが当然だと思うすべてのものが、実は生存的な有利さを考慮して生成された形だということについて考えると。 ホモ·サピエンスという種族が現在人類の最終形態だということについて考えると。二足歩行の当たり前さを考えると。そんなことについて考えると、仕方なく疑問を提示したくなるのが、現在の「人」である。

 現在の地球には「社会」というものが構築されていて、私たちはもはや人間ではなく、「人」という存在と扱われている。すなわち、これ以上生存そのものに焦る必要もなく、ただ人生を営みながら楽しく生きていくのが最高の悩みということだ。私もそのような人の一人として、ディスコードであの議題が上がれた時、ふと思ったのだ。そういえば、四つん這いで歩けない理由はないのではないかと。

 単純に「有利だ」という理由は人間が二足歩行をする理由にならないと、そんな考えをしてしまう一人がここにいる。一人だけではない。Doだけでも何人かはいるのだ。そんな人同士で意見を総合し、結論を出した。じゃあ、四つん這いで歩いてみようか。もちろん、彼らが四つん這いで歩きたい理由はそれぞれだろう。しかし、四つん這いで歩きたいという結論は一つであり、そのような考えをする人が多数であり、それが社会を壊したり自分自身を傷つけさせるものでもなければ、できない理由はどこにもなかったのだ。だから、思ったことを実行に移すだけ。
 大げさなことを言っているようだが、私が言いたいことは、実に単純だ 。四つん這いで歩きたがる自分の仲間たちがいる。では、楽に歩かせてあげよう。ただそれだけ。それは,現在の「人」にいかなる違反も被害も及ぼさない行為であり,してもよいという判断であった。
 このような軽やかで大層な心構えとは逆に、東京駅での最初の「四つん這い」は、まったく進めずに止められた。駅員さんの話によると、他人の家で四つん這いになっても困るということだった。そうなんだ、よく分からないけど、場を移動した。
 私たちが向かったところはすぐ前に見える別の広場だった。そこでは誰も私たちの四つん這い散歩を制止しなかった。私もお金をたくさん稼いで私の土地を買った後、その土地では両足で歩くこと禁止としてみようかと想像しながら、私の仲間たちの四つん這いの姿を撮影した。時々通りかかった人々が何をしているのかと尋ねたが、私はただ「四つん這いで歩いています」と答えることしかできなかった。本当に四つん這いで歩いているだけだから。 ちょうど天気もいいし、ちょうど四つん這いで歩きたいから、天気の良い日に四つん這いで散歩してみようか。そんな考えがよぎって、行動に移しただけだから。

 二足歩行だったら数十秒で終わったはずの道を、四足歩行の彼らは数分かけて歩いた。歩いていく瞬間にも多くの筋肉と体力を消費しながら、一歩一歩に意味を付与することが見えた。二足歩行の瞬間には経験できない地面の匂いや距離の音などを感じたりもしたようだった。地下鉄の階段を下りる彼らを遠くから撮影した。同じように地下鉄の階段を降りる二足歩行の人々が忙しく降りるのが照らされた。それでやっと気づいた。「歩く」と「這う」の違い。それは、速度の差。速度の差は、余裕の差。 余裕の差は観察の差。 観察の差は悟りの差。二足歩行が当然視される社会では、四足歩行のみ悟る何かが必ず存在する。
 彼らは歩いていた。 他の二足歩行の人の間に自然に混じって、ただ腕を地面につけて、視線を下げて、速度がぐっと遅くなったまま。そういう余裕をもって、人と違う感覚を使いながら前に歩いていた。
 四つん這いで歩いている彼らが何を考えていたのか、私には分からないが、すべてをずっと見守った私としては、四つん這いで歩く行為の特殊性は見られなかった。東京駅という観光地からだんだん遠ざかり、東京市民が普通で当たり前のように行き来する街や地下鉄の駅を歩きながら、私はもっと確信した。彼らは四つん這いで歩いている。私の目で見た彼ら、カメラに撮られた彼ら、世の中に刻印された彼らは、ただ。四つん這いで歩くだけの、ただの「人」に過ぎなかった。ちょうど天気もいいし、ちょうど四つん這いで歩きたいから、天気の良い日に四つん這いで散歩してみようか。そんな考えがよぎって、行動に移しただけの、そういう人。

 四つん這いで世の中を進むというのは、果たして歩くことなのか、それとも這うことなのか。私の結論は、四つん這いで前へ進むことは、歩くことにもなりうる、這うことにもなりうる、無限の可能性を持った行為だということだ。両足で歩く行為も同様に、いつでも四つん這いで歩く準備ができている行為だ。「人」とは昔からそういう存在だから。

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