悪意

    男はそこそこ広い公園のベンチに腰掛け、図書館で借りた本を読んでいたが、第一章も終わらぬうちに眠気を催し、微睡んでいた。
    春の穏やかな気候が緩やかに心身をあたためていく。眠くなるのも無理はない。
    視覚を使わないとそれ以外の感覚が鋭くなるのか、公園に植わっている梅の花の香りや、風の戦ぐ音、鳩の鳴き声、子供のはしゃぎ声などを些か強く感覚する。

    眠気がおさまり、ゆっくりと目を開く。
    ゆっくりと顔を上げると、目の前に老人が立っていた。距離が異様に近い。性別が判らない。男は驚き、うわっ、と莫迦みたいな声を上げた。
    見知らぬ老人は、けっ、と相手を莫迦にするような声を発した。相手とはむろん男のことである。老人は緩慢な動作で百八十度方向転換をし、杖を片手に、亀のような速度で歩き始めた。

    男はしばらく茫然としていた。が、やがて怒りが沸いてきてベンチから立ち上がり、走って、老人の正面に回り込んだ。そして男は先ほど老人にやられた、けっ、という意味不明の嘲りを模倣した。
    すると、老人は、「何だ!」と声を上げ、杖を男めがけて振り上げた。
    男は反射的に後退し、それを回避した。
    老人はバランスを崩し、倒れた。これは想定外で、流石に可哀想だと思い、屈んで、手を差し伸べた。
    老人が掴んだのは手ではなく、胸ぐらだった。何かわけのわからないことを口ごもっているが、険しい眼差しから察するに、男に敵意と悪意を向けていることだけは判る。
    男はとうとう堪忍袋の緒が切れ、ひ弱な力で執拗に胸ぐらを掴む老人の手を力ずくで振り払い、餓死寸前の乞食のようなポーズをしている老人の顔めがけて唾を吐き、公園から立ち去った。


#短編小説

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