かりそめの温もりを

    「もういっぺん言ってみろ」
    恵子はもう、父の目を見ることが出来なかった。打たれた方の頬をひっきりなしにさすっていた。
    ああ、私はただ、歩み寄って欲しかっただけなのに。「どうして」と、非難ではなく、傾聴の、対話の調子で訊いて欲しかっただけなのに。それだけなのに。
    「だから、生まれたくなかった」恵子は俯きながら、先ほどした回答を繰り返した。
    その瞬間、また平手打ちが飛んできた。今度は、もう片方の頬に。父の瞳孔がふたたび大きく開き、凄まじい剣幕で恵子を詰った。声が大きすぎて、何を言っているのか判らなかった。
    「聞いているのか、お前」
    聞いているわけないだろう。人の話をまともに聞かない癖に、自分の話は聞いてもらえると思ったら大間違いだ。
    以前口論になった時、私が「対等の立場で話したい」と父に訴えたら、返ってきた応えは「親と子供が対等な訳ないだろう」だった。私は絶望した。その返事はすなわち、「俺はお前と対話する気なんて無い」という事だろう。本人がそう思っていなくとも、私はそう解釈してしまった。そして、その解釈はあながち間違いでは無かった。現にまた、このような状況が生まれているのだから。
    大人はどうして、こうも傲慢なのだろう。どうして、こうも余裕の無さそうな顔をしている人が多いのだろう。どうして、理不尽な事を、平然と相手に言ってのける事が出来るのだろう。想像力を欠き、感情のコントロールもままならず、それでいて正義に侵されている人の、反論に必死になっている様はいつも醜い。反論、いや、こちらの言う事なんて、論ではなく、取るに足らない戯言だと思っているのだろう。自分の発言の正当性を考慮するなんて事はせず、あたかもそれがこの世の常識であるかのように言って聞かせる。ありもしない常識を植え付けようとするのだ。そんな事があってたまるか。洗脳の手口と変わらないじゃないか。
    私はずっと黙っていた。相互理解など出来るはずも無い。だって、対等じゃないんだから。相手は出来ると勘違いしていそうだけど。
    「どうなんだ、おい。何とか言ってみろ」
言ったところで、どうにもならない事は判り切っている。だから私は、自分の考えを断固として言わず、いつしか相手に同調するだけの人間になっていた。小さな自殺だった。
    「…ごめんなさい。もう、あんな事言いません」私はそれだけ告げ、自分の部屋へ戻っていった。

    その夜、私は昨晩書いた遺書を本棚の裏から取りだして、何周も読んでいた。暗唱できてしまうくらいに。日付が変わる二分前、私はそれを寝台の上に放り投げた。
    ベランダに出た。そして、一言一句違わず暗唱した。涙が溢れて止まらなかった。すべて自分の為に流れた涙だった。
    下を見下ろした。足りる高さだと思った。
    「さよなら。お父さん、お母さん」
    鈍く冷たい音が、響いた。

遺書

    この手紙が私以外の手に触れているという事は、私はもうこの世にはいないという事です。いままで、お世話になりました。

    私は、自分で言うのは変だとは思いますが、自分の事を繊細な人間だと感じてきました。繊細すぎると言っても、過言では無いでしょう。

    喧嘩が嫌いでした。いや、厳密に言えば怖かったのでしょう。相手の癇に障らないようにと言葉選びに注意する事を身に付けたのは、思い返せば、小学校に上がる前からだと思います。

    お父さんとお母さんは、毎日のように喧嘩していましたね。少なくとも、私には喧嘩のように見えました。私は毎日、怒鳴り声が響き渡るたびに、怯えていました。自分に向けられている訳でもないのに。

    いつしか私は、お父さんも、お母さんも、そして弟も、好きではなくなってしまいました。いや、最初から好きではなかったのかもしれません。第一私が、愛されていると感じる能力に乏しかったのですから。

    いつかお父さんに、どういう状況でだかは憶えていませんが、「私はどうやって生まれたの」と訊ねた事がありました。いま思い返せば、恥ずかしさに居ても立ってもいられません。ですがお父さんは、それを上回るくらいの恥ずかしい返答をしました。それは憶えています。「お父さんとお母さんが、愛し合って生まれたんだよ」と。

    然し、私には両親が愛し合っているように見えませんでした。それは、毎日喧嘩していたからです。私には、訳がわかりませんでした。高学年の頃の保健の授業で件の疑問は解消されましたが、その行為によって一人の人間が誕生するのを想像すると、私は吐き気が込み上げてくるような心地になりました。実際、クラスの男子や女子がそういった話題で休み時間に面白可笑しく談笑している時、私は一人トイレに駆け込んで、口の中が酸っぱくなるほど吐きました。

    「何が愛し合って生まれた、だ。いま愛し合ってないじゃないか」その印象が私に付き纏って離れなくなりました。生まれてくる存在に罪は無いのに、その存在を拵える行為が、どうしても受け入れられない。好きでもない、決して相容れない(向こうは私が何でも話してくれる、きっと分かり合えると信じて疑わなそうな態度をしているけれど)他人と血が繋がっているという事実が、どうしても受け入れられない。気持ちが悪い。もっと増しな嘘を吐いて欲しかった。

    私は、矛盾している事が嫌いです。とはいえ矛盾したことが無い人間なんていませんから、どうしようもないですけど、それでも、どうしてあんなに、しかも私の見えるところで、啀み合っていられるのでしょうか。あなたたちが啀み合った分だけ、私の寿命が縮まるしくみならよかったのに。偽りでもいいから、私が不安と緊張に苛まれない毎日を提供して欲しかった。どこにも居場所が無かった。物理的にも、精神的にも。

    どうやら、生まれてしまった時点で、そして「親」という存在と一緒になっている時点で、親子関係は対等では無いそうです。私は、ある日、たまりかねて言いました。「あんたたちの介護なんてしないから」するとお父さんはこう言いました。「いいよ、しなくて」

    私は、生まれるまでにあった事実を受け入れられなければ、生きる意味も持つことが出来ませんでした。生きる意味なんかより、生まれた意味や、いつかは必ず死んでしまうという事の方が私にとっては重要な事だったのです。

    「死にたい」と「生きたくない」の違いがあなたに判りますか。

    「誰かが死にたがったきょうは他の誰かが生きたかった明日」なんて事を言うのでしょうか。いつもの洗脳口調で。世間はいつだって生きたい人の味方。それでいて搾取には抜かりが無い。酷く、冷たいですね。

    この世界は理不尽に満ちています。私が生まれてきた事だって理不尽です。仮にもあなたたちが愛し合っているからといって、それが何ですか。それがどうして、また一人の人間の人生を強制的に開始させる事と結び付くんですか。意味がわかりません。どうして、押し付けられたものを有り難がり、生きる意味を探さなくてはいけないのですか。どうして、その生きる意味とやらがないと、変わり者として見られるのですか。冷たい視線を、投げかけるのですか。

    私には、心から話し合える人なんて、ひとりもいませんでした。ひとりも。それは周りが悪いのではなく、私の選択です。無駄に傷つく事に怯えた、私の怠惰です。

    もう一度言いますが、私はあなたたちが愛し合っているようには見えませんでした。ただの一度も。私に存在理由を教えながら、それに靄をかけたのは他でもない、あなたたちなんですよ。私は、ただ、対等でないならせめて、それだけは守って欲しかった。でも、それさえも守ってくれなかった。私って一体、何なの?

    こんな茶番に、もう付き合っていられません。これ以上、消耗する日々を送りたくありません。私には、結婚も、出産も、愛も、友達もわかりません。何もわかりません。私を盲目に出来るだけの手腕が、あなたたちにはありませんでしたね。あなたたちの洗脳に、私は引っ掛かりませんでした。私もあなたたちも、残念です。

    それにしても、一人っ子は我儘になるなんて、誰が言ったんでしょうね。私が、自我を持ち始めてから、我儘を言った事がありましたか。罵声と暴力が飛び交う家庭にそんなものは助燃剤にしかならないと思い、私はずっと自分の部屋に閉じ籠っていました。どうやら私が私への愛情を感じる方法は、あなたたちが心から愛し合う他に無いみたいです。個人的な愛情だけでは、家族は成り立たない。お母さんとふたりきりになっても、お父さんとふたりきりになっても、弟とふたりきりになっても、私は満たされなかった。私の愛情を受ける器の底は抜けていた。私の心に家族は、無かった。

    最初で最後の我儘が、面と向かってではなく、こんな薄っぺらい紙の上でなんて、馬鹿みたいですね。でも、許してください。私には、こうする事しか出来なかった。

    どうか、弟をこれ以上哀しませないでください。

    さようなら。

                                                                恵子より


#短編小説

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