歩く

「死ぬのに理由って、必要?」
    いつかきみが、そんなことを口にしたのを覚えている。
「わたしはべつに、なくてもいいんじゃないかなって思うんだあ。あってもなくても、いいんじゃないかなって」
「・・・死にたいのか?」
「もう、いまそんな話してないよ。死にたいとか死にたくないとか、自殺は善いか悪いかとか、そんなことじゃなくて、死ぬのに理由はなくちゃいけないのか、それともあってもなくてもいいんじゃないか、ってことを訊いてるの」
    見当違いの返事をしたことが気に障ったのか、捲し立てるような勢いに気圧されて黙り込む。きみはわざとらしい溜め息をつき、失望の色を示した。
    僕もわざとらしく頭をかきながら応える。
「そうだな、僕もべつに、あってもなくてもいいと思うよ。きみと同じだ」
    俯いたままのきみは僕を一瞥して、視線をまたすぐ地面に戻した。僕たちはいま、僕たち以外の人がいない公園のベンチに並んで腰かけて喋っている。
    二分ほどの沈黙の末に、きみがようやく口を開いた。
「あなたは、死にたいって思ったこと、ある?」
    それはさっき僕がした質問じゃないか、と心の中で笑いながら応える。
「ああ、あるよ。なんなら、いま思ってる。いますぐにでも死ねないかな、って思ってるよ、ずっと」
    澱みなく言い切ると、きみはさっきの挑戦的な眼差しからは打って変わって、珍しいものを見るかのような好奇心の窺える視線を投げかけてきた。僕の返答が想定外だったのだろう。
「え、そうなの?なんか全然、死にたいとか、そんな感情からは無縁な場所にいると思ってたんだけど。理由とかあるの?」
「はは、失礼だな。逆に最初からそこにいたんじゃないかってくらい縁があるよ。縁や運命なんかが人知を超えたものであるように、僕が死にたいと思うことに理由なんてないんだよ。衝動に後から動機付けするなんてそんな余裕がある人間がいるのなら、それは不純なんじゃないかって僕は思うね。僕だったら自分に嘘をついているような、後ろめたい気持ちになる。計画的に死のうとする場合は緻密な準備だったり段取りだったり、きみが言うように理由を持つか持たないかについて考えたりするんだろうけど、突発的な希死念慮に襲われて自殺した場合、残るのは自殺したという結果だけで、理由なんて誰にもわからない。理由の有無すらも知る由がない。衝動自殺に理由の有無の必要性なんて、考えるだけ野暮な話だ」
    最後のは蛇足だったな、と思いつつも訂正する気力もなくふたたび口を閉ざす。返答を待つかのように沈黙を決め込む。
    日はとっぷり暮れ、夜の気配が濃くなっていく。
「・・・わたしもね、わけもなく死にたくなるとき、あるよ」
    消え入りそうな声で、つぶやくようにきみが言う。
「わたしが最初にきみに訊いたのは、きみの言葉を借りるところの計画的な自殺なの。だから断続的とはいえ、発症の頻度が違うとはいえ、わたしと同じように腐心している人がこんな近くにいたなんて、気付かなかったし、気付いて、あげられなかった。自分のことばかり考えてた。誰かが寄り添ってくれることばかり期待して、同じような境遇にいる人に自分が寄り添うことなんてまったく考えてなかった。わたし、馬鹿だなあ」
「誰だってそうなるもんだと思うよ。僕だって最初はそうだった。けど、いまの僕は期待することはおろか、寄り添うことすらもしていない。自分のことしか考えてないという点では、きみと同じだ」
「茶化さないでよ」
「でもいま、寄り添いたいなって思ったよ。きみになら打ち明けてもいいかなってことたくさんあるし、いままでも実際、言ってきたから」
「・・・わたしが死んだら、悲しい?」
「逆に訊くけど、きみは?」
「悲しいよ」
「へえ、どうして?」
「それこそ理由なんていらないでしょ。正義って、説明が感情に追いつかないときにしか発揮されないんだよ」
「正義のぶつけ合いも、なかなかグロテスクだけどな。人を傷つける正義もある。でも、きみの正義になら傷つけられてもいい」
「あなたは自分の正義って、ないの?」
「考えたこともないな。でも強いて言うなら、相手がどんな人間であろうと相手の正義を尊重することかな。それが僕の正義」
「あはは、あなたらしいね」
    嘲りではなく、感心から来る笑いだった。
「僕は隠してたんだな、いままで。いつも死にたいってことをさ。なんか、誰にも理解されないだろうって悲観してたのが、誰にも理解されてたまるかって傲慢に変わっていってさ。それで、意味もなく、理由もなく、何の目標もなく、惰性で生きてた。死に損ないの毎日で、ただ刹那的に生きてた」
    俯きながら言う。きみが僕の目を見ているのが距離感でわかる。
    辺りはすっかり夜の空気に包まれていた。
「もし僕が死のうとしているのを見たら、止めていいよ。でも何かの間違いで、僕だけ死んだり、君だけ死んだりするのは嫌だな。出来れば一緒に生き残るか、一緒に朽ち果てるかがいい」
「それ、いまわたしが言おうと思ってたことだよ」
「え?」不意を突かれて笑ってしまう。
「大丈夫だよ。ずっと隣にいるから」
「それ、いま僕が言おうと思ってたことだよ」
「茶化さないで」不意を突かれたきみが怒りながら笑っている。
    ふと思う。不幸とは共有相手の不在ではないかと。
「もう、臭い台詞しか言えないんだよな。そんでもって、恥ずかしい感情は不思議と湧かない。ずっと閉鎖的な生活をしていたせいで、現実感が薄れていってるんだろうな。でも、ほとんど現実に愛想尽かしてたけど、きみときみの言葉だけはなんだか、信じていいかなって思えたよ」
「・・・」
「太宰の『秋風記』って読んだことある?あれが僕、好きなんだよ」
「あるよ。わたし、女の方にしか共感できなかったの。でもいまなら、男の方の気持ちもわかる気がする」
「ああ、あれは誰も憎めない。悲しい話だよ」
    音を殺して深呼吸をする。爪のような三日月が夜空に浮かんでいる。
    優しさは、想像力のことだと思った。
「ねえ」
「ん?」
「どこにもいかないでね」
「ああ」
「ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ。でも、一緒ならいいだろ。いまから海にでもいこうよ」
「は?また突然なんだから・・・」
「突然の希死念慮で車道に飛び出すよりマシだろ」
「はいはい」
    僕たちは死にたい気持ちを抱えながら生きてきた。それはいまも変わらない。そしてこれからもそうだろう。ただこれまでと違うのは、これからは隠さなくてもいいということだ。
「なあ」
「なに?」
「いま、死にたい?」
「ううん」
「そうか」
「でも、幸せなうちに死にたいなあ、とは思うよ。贅沢な話だけど」
「ああ、僕もそうだな。最期くらい贅沢したって誰に咎められる筋合いもないよ」
    きみはあの時、死にたいと思ったのだろうか。
「海、いくんでしょ。終電なくなる前にいくよ」      差し出された左手を握る。立ち上がると軽い目眩がした。
「いくかあ」間延びした声で応える。
    明日のことなんていいよ。いまきみが隣にいてくれれば。
    あらゆる問いを放置して、今日死ぬことを延期して、僕たちは夜の中を歩き始めた。


#小説

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