"Love" kills us

何も愛さずにいるということが人間には許されている。
(ジョルジュ・バタイユ『魔法使いの弟子』酒井健訳)


    愛するものを殺せるか、と書いた詩人がいた。
    俺はどうだろうか、愛する人に殺して欲しいと訴えられたら、それに応じることが出来るだろうか。
    嫌怨する人間を殺すのと愛する人間を殺すのとでは訳が違う。嫌怨する人間に殺してくれと言われたら、法律という障害がなければ、俺は直ちに実行に移すだろう、犯罪がなければ犯罪者は生まれないから。
    愛するものを殺せるか、この問いに俺は依然悩まされている。愛は理性の産物ではないから、悩んでいることにも悩まされている。
    愛するものを殺せるか、それは単なる問い掛けではなく、覚悟の有無とその度合いの確認という意味合いが強い。躊躇なく実行に移せることが結果的に「真に愛している」ことの証明になるのではないか?そうはいっても、一瞬でも抵抗感を覚えない人間などいるだろうか?
    逆に自分は訴えることが出来るだろうか?自分には「愛する人に殺されたい」という思いがあるだろうか?あるとしたらそれは確固とした、切実なものだろうか?
    訴えは愛の確認装置というのも考えてみれば安直な発想だ。しかし愛が安直でなかったことなどあっただろうか?愛はいつだって軽薄で安直で傲慢だ。
    愛したいも愛されたいも根源は同じ、欠落感である。より正確を期すなら欠落感を持て余している己の脆弱性だ。空白を絶えず満たそうという哀しい努力、それは狂気に他ならない。狂気はいずれ暴走する。それは不可抗力であり、滑稽であり、悲劇に他ならない。
    ところで俺には真に愛する人がいただろうか、そう思いながら俺は最後に自分を代入する。


#短編小説

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