泡沫のさよなら

    身を投げようとしたら、腕を掴まれた。知らない人だ。
    僕たちは、河川敷の方まで歩きながら話をした。欄干の上に立っていた僕は、どうやら笑っていたらしい。さぞかし不気味だったろう。
    僕は、自分が憶えている記憶を、訊かれてもいないのに、ひとつ言った。ひとつしか言えなかった。それが相手には、幸せな印象を与えたようだ。
    「幸せそうなのに、どうして死にたがってるの?」
    「きみは、死にたい人を見て、幸せじゃないから死にたいんだろうなって、そう思うの?」
    「幸せなのに死にたいなんて、可笑しいじゃない」
    「違うよ。僕はね、幸せだからこそ死のうと思うんだよ。……僕はもう、幸福に怯えていない。怯えていた時は、殺されるなんて思っていたけれど、今の僕は殺されるんじゃない。殺しもしないし、殺されもしない。これは心中なんだ。幸福という、瞬間との心中」
    「…………」
    「生きるも死ぬも権利なんだ。幸せな人には死ぬ権利が認められない、死を望むことも許されないなんて、それこそ可笑しいだろう?」
    「あなたにとっての幸福って、何なの?」
    「未練がないこと」
    「それだけ?」
    「ああ」
    「じゃあ、不幸は?」
    「記憶が増えていくこと」
    「え?」
    「記憶ってのは、ひとつあれば充分なんだ。僕はずっと、忘れることが怖くて、恐ろしくて、怯えていたんだけれど、今は、忘れるということができて、よかったと思う。ひとつの記憶を、他の記憶が消し飛ぶほどに、毎日毎日、思いつづけるんだ。そしたら、それが自分のすべてになる。想い出を増やすことを生き甲斐にしている人は少なくないと思う。実際、僕もそうしていた時期があった。でも、今はそうは思えない。あらゆる不幸は、比較から始まる」
    「記憶を、棄てる……」
    「『あの頃よりは増しだから』なんて自分に言い聞かせて生き長らえるのも、惨めだ。幸福に優劣をつけたくないのと同じくらい、不幸にも優劣をつけたくないんだ。相対的な幸福も、相対的な不幸も要らない」
    「あなたは、怖かったんだね。変わっていくことが」
    「変わらないことも怖かったよ。でも今は、両方とも受け入れられる」
    「ねえ、最後にひとつだけ」
    「何?」
    「きょうの日のことを、憶えていていい?」
    「好きにしな。じゃあな」
    「うん。じゃあね」


*


    僕は、ひとつだけ嘘をついた。


*


    僕にとって、記憶は命だった。記憶にも、心臓があった。

    さよなら、と喉を震わす。それは四つの泡になって、だれにも見られずに、爆ぜた。


#短編小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?