狂気

    踏切の前で、中年の男二人が揉み合いになっている。それぞれ、A、Bとしよう。私はホームのベンチに座りながら、二人の喧嘩を見ていた。
    あれでは通行の邪魔ではないか。通報しようかと思ったが、家に携帯を忘れたことに気づいた。
    尚も揉み合いを続けている二人のまわりに人だかりが形成された。不安や心配の表情をしている人が見受けられるが、大抵は迷惑そうにしている。その野次馬の中に一人、携帯を向けている女子高生がいた。動画を撮っているのだろうか。動画を撮るのではなく通報すればいいのに、と私は思った。携帯を持っているのだから。
    踏切が鳴った。男二人は移動した。野次馬も移動した。移動の最中、男二人は、自分たちに携帯を向けている女がいるのに気づいた。
    Aが叫んだ。「何撮ってんだてめえ!!」
    Bは叫ぶことはなく、その女の方に向かって恐るべき速度で走っていった。
    女は背筋が凍り、逃げようとしたが、男に捕まってしまった。
    Bは女の携帯を強奪し、執拗に踏み潰し、使用不能にした。女は為す術なく、立ち尽くしていた。
    Bは野次馬の中にもう一人、自分に携帯を向けている人間を確認したようで、再び走り出した。今度は男子高生だった。
    男子高生は後ずさりをし、それから背を向けて走り出したが、敢えなく捕まってしまった。
    Bは先ほどと同じように相手の携帯を奪った。そして今度は踏み潰すのではなく、踏切に向かって投げた。恐るべき腕力だ。携帯は今や、線路上にあった。
    それを取り戻そうと男子高生は線路に向かって走り出したが、ほどなくして遮断機が降り、電車が通過した。遮断機が上がり確認すると、携帯は原型をとどめていなかった。
    Bの突然の行動を気味悪く思ったのか、Aは逃げた。Bはそれを一瞥したが、追いかけなかった。
    野次馬はいつの間にか消えていた。携帯を破壊された二名も消えていた。
    Bが突然ホームの方を見た。私と目が合う。私は驚き、緊張する。もしかして、私が見ていたことに気づいていたのだろうか。Bは私に向かって言った。
  「自分が関与してない争いをエンタメとして消費される、こんな気持ち悪いことはないよね」
    私の返事を待つことなく、Bは去った。
    不意に思った。Bの声を聞いたのは初めてだ、と。


#短編小説

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