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『関心領域』を見たよ

ごうごうと、強風の吹きすさぶなかにマイクを置いたような音がする。その音は、画面の中で何が起こってもずっと続いている。画面の中の軍人らしき男は、来訪者と話し込む。彼らは、人間をもっと効率よく燃やすやり方を話し合う。よく手入れされた家からよく手入れされた庭に出ると、青空に煙がたちのぼる。ごうごうと風のような音は消えない。スクリーンを見て、これは人が燃えている音なのだと定義する。この映画が描き出そうとしているものを考えるならば、この美しい家と庭に暮らす人々が生きる日々の間はずっと、壁の向こうで焼却炉は燃やし続けている。
そして、そんなふうにして鳴り続けている音を、人は簡単に意識下に置いてしまえる。

『関心領域』は、アウシュビッツ収容所の隣に暮らす家族の日常を描いた映画だ。最終的に4つのガス室を備え、100万人以上のひとびとが虐殺されたこの収容所の壁を一枚隔てた土地には、収容所を管理し、より効率的に収容所を運営するための仕事に就いたナチス・ドイツの軍人ルドルフ・ヘスと彼の家族が住んでいる。
ヘスは懸命に、全身全霊をかけておのれの仕事を全うする。ヘスの妻は、手に入れた理想の生活を維持するのに躍起だ。組織の中の一員に過ぎないヘスは人事異動によってこの地を離れる可能性に触れるが、ヘスの妻は到底受け入れられない。このヘス夫妻の葛藤を中心に、壁の向こう側を決して映さないままで、物語は進んでいく。ある種のホームドラマのように、そこには直接的な暴力の発生する瞬間は存在しない。

もちろん、この映画の主眼はそこにはない。その意味では、難しい映画だ。ハイコンテクストな映画であることは間違いがない。ごうごうと鳴り響く音を頼りに、観客は画面の真ん中に映っているもの以外、を手掛かりに何が起こっているかを考える。銃声、悲鳴。壁の向こう、収容所と思しき方向とは別の側には、車体は見えないけれど機関車の煙と警笛の音が聞こえる。軍人の同僚が来ているのか、と思いすぐに否定する。そこに詰め込まれているひとびとの姿を、様々な記録映像で、あるいは映画作品で、きっとほとんどの人が見たことがあるはずだ。この映画を見に来る多くの人は、そこで何が行われたのかを映像的なイメージも込みで知っている。

手に入れた暮らしを手放すのは辛い。夫婦の軋轢のドラマを、その成り行きを追ううちに、私はいつしか、あのごうごうという音を、ずっと聞こえているその音を意識の外に置いていることに気づく。ずっと聞こえているのに、当たり前のことになって、目の前で起きている直接的な変化を追うことに躍起になる。その心の動きに、自分でぞっとする。人間の認知は簡単に、起こっていることを後景化できる。どんなに残虐で痛ましい出来事をニュースで聞き知っても、日々の暮らしの中で(日々の暮らしほど、大変なものはない)その出来事は忘れ去られてしまうように。

映画の中で描かれるヘス夫妻は、自分たちのしていることに自覚的だ。壁の向こうで何がなされているかを理解している。家の中では、収容されたひとびとから奪った宝石や毛皮が披露されてすらいる。それは彼らの仕事の結果であり、副産物であり、あるいは彼らにとっては当然の権利なのかもしれない。殺して奪うことは、戦争の中では簡単に正当化されうる。多くの場合、後年に生きるひとびとは、このような虐殺を考えて「なぜこのようなことができたのか?」と疑問に思う。でも、たぶん、起こっていることを後景化するメカニズムと、ヘス夫妻のやっていることのあいだには、たぶんあんまり距離はない。日々の暮らしほど、大変なものはない。

クライマックスシーン、ヘスは自分の進退において前向きな結果を得て、アウシュビッツに家族とともに住み続け、自らの仕事を遂行する権利を得る。そこで彼は身体的な反応を示し、そして場面は現代のアウシュビッツ収容所内、今は平和博物館として管理されている場所に映る。床を掃除する職員の姿、ガラスの向こうに展示された被害者たちの大量の靴。とうとうカメラは、あの壁の向こうへとやってきたのだ。しかし、そこにはあの叫びを、苦悶の声をあげていた人々はいない。銃声が貫いた肉体も。ただそこには痕跡だけ。過去においてはそれは壁として。現代においてはそれは時間的な隔たりとして。どうやっても、そこで苦しみ、死んだ人には触れられない。死をもたらすために用いられる圧倒的な暴力によって、殺されてしまった人々は、それ以外のひとびとからアクセスする手段を徹底的に奪い去られる。真っ暗な闇の中へと。この二重の断絶によって観客は思い知らされるのだ。彼らは決して消え去ってしまったわけではない。でも、少なくとも死んでしまった人たちに触れる機会は永遠に失われ、まるではじめから存在しなかったようにすら、錯覚させる。これが暴力の究極的な帰結だと、ヘスの見た廊下の向こうの暗闇は語り掛ける。

今もなお、ごうごうという音は鳴り続けている。目を瞑ってもその音は消えない。けれど、私達は日々の暮らしの中で、その音を簡単に意識の外へと追いやることができる。『関心領域』の映画体験は、それを証明している。
なぜかれらはそんなことをしたのだろう? そんなひどいことができたのだろう? そんな悪いことができたのだろう? 起こったことはひどすぎて、彼らを他者化することは簡単にできてしまう。私達は今日も当たり前に、日々の暮らしの中で、ひどいことをしている。


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