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『ネット右翼になった父』読んだよ

『ネット右翼になった父』を読んだ。2019年の記事で父親がネトウヨになってしまってショックやん……という記事から、どうして父親がネット右翼になってしまったのかを追っていくドキュメンタリー。個人的にすご~~~~く嫌な後味が残った。

いろんな人が書評してる通り、この本は原因究明というよりは父親とのディスコミュニケーションを父の死後にやり直して、結論としては父はネット右翼になってなかった!もっと話をすればよかったけどそれも無理だったんだよなぁ……でも父親のことを誤解したままじゃなくてよかった、という結論に落ち着く……んだけど、他人である一読者としては、いや〜このお父さん、ネット右翼なのでは????となってしまう。

そもそもネット右翼という言葉がフンワリしてるし、罵倒語としての側面を持っていることが問題で、なのでネット右翼とはどういう人なのかを定義して、それに当てはまるかどうかを検証していこうという方法論は正しい。けっきょくのところ、筆者の立場的にはやはり嫌悪が先に立って父親自身を直視していなかったという反省もわかる。人間をそのようにラベリングすることから対立と分断は生まれるし、レッテル貼って目を逸らすよりも相手をよく見て分断を乗り越えないといけないよね、という主張も全く正しいと思う。

しかし、筆者が父親をネット右翼ではないと結論づけるための論拠として持ち出される父親の性格や生育歴などは、むしろ「あー差別ってこういうふうに発露していくよね……」という、わりと典型的なパターンにも見える。被差別対象が身近にいたこと、そこに分断があったこと。父親が中韓に対する差別的言説を口にしていた要因として、戦後の混乱期から高度成長期にかけての部落解放同盟や朝鮮人共同体の存在感や彼らの威圧的な態度、脅迫行為などを根拠に、この嫌悪感は実態のあるものでありネット右翼の差別とは違うよと主張してるわけだけど、その理屈こそネット右翼の差別感情そのものでは、と傍から見てて思ってしまう。論が混乱するから敢えて、というのもわかるけど、ここには被差別対象が攻撃的に振るまった歴史的経緯はまるっと無視されている。私の差別感情には根拠がある、なぜなら……と、いくらでも「差別する根拠」は出てくる。関東大震災での朝鮮人虐殺にも、虐殺をした当事者には「根拠があった」んだろう。

朝日新聞嫌いや商業的左翼についての嫌悪感についても言及されるけど、それこそネット右翼の心理的な動きそのものではないだろうか。ネット右翼的な言説を定食メニューに例えてるのも、差別の複数のレイヤーを無視している点で乱暴だ。この筆者の父親は「価値観の定食メニュー」を嫌って単品の差別を個別に注文していたわけだが、それがどんなエクスキューズになるのか私にはわからない。
こういうふうに差別するひとはめちゃくちゃいっぱいいるよねという話で、私もたぶん自分で気づかずにしている差別を今かあるいはいつかちゃんとジャッジされるのだろうし、それは自然なことだ。

ちなみに私の父は子供の頃、親が経営していた工場が共産党員の従業員に放火された(詳細が曖昧な情報だけど私はそう聞いている)という理由で共産党とかその支持者とかまあ、左翼的なものも含めてが大嫌いだ。個人的な体験に基づいた感覚にケチをつけることはできないし、私も理屈ではなく個人的な体験から生じた信念や嫌悪感は持っている。だからといって父が共産党関連でなんかヤバいことを言ったらめちゃくちゃイヤだし「やめなよ……」と言うだろう。「放火されたからこっちは被害者なんだが?」と当人は思ってて実際にまあそうなのかもしれないけど、周りは「気持ちはわかる、けどやっぱだめだよ」とならなければ嘘でしょう。

この本の結論は、「ネット右翼の定義はこう。だとすると父親はネット右翼じゃなかった」ということになる。でも、筆者のロジックからいくと、「そもそもひとにネット右翼っていうレッテルを貼るのはよくない」くらいの落としどころにならないと変なんだよね。分断を相互理解で乗り越えるという話で理解するならば。でもこの本はそこまでは踏み込まない。過激で極端な考えに陥る人を筆者は思想の左右に関わらずところどころで批判的に(時に冷笑さえ感じさせるほどに)見ているけど、私はそのバランス感覚そのものが怪しく見えるので、どうしても違和感が残る。生活実感に即した差別感情を人柄や人生に照らし合わせて温存するのは、差別する当人はともかく、差別される側にとっては悲惨なことにしかならない。しかもその心の動きを、ものすごくウェットに、「長男の自分は父親にかなわないというコンプレックスがあった」という謎のホモソーシャルな論理で語ってくるからよけいに「知らんがな」となってしまう。対照的に、「家族の中の女性は父をそれほど酷評してない」みたいな「女性による許し」の視点が並置されるのも、私個人としては醒めてしまう。父親のはまってしまった「ロールモデルの喪失」を解体するには、その部分の検討が本来なら必要なのでは?
一個、これはすごいな……と思ったエピソードとして、母が貯めていた夫婦二人のための老後の資金を、父が退職後に「半分は自分のだから」と留学や語学勉強のために使った、というものがある。いや、生活費とかも含めてるだろうから自分の分とか言いつつも母親のための貯えも圧迫してるのでは……と、「ママスタセレクトで全8話くらいの漫画になりそう」くらいのインパクトはあるエピソードなのだが、本文中ではさらっと流されている。

いずれにせよ、筆者が家族という共同体の分断を解消するため、今は亡き父親と和解するためには父親の差別をある程度までは追認する必要があったということなのだろうし、それが差別の難しさの根本的な部分なんだろうなというのもよくわかった。同時に、それを家族の物語としてウェットに書かれて美談めいたコーティングされていることはハッキリと嫌だなと思う。


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