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「笑ってはいけない」でめちゃくちゃ気になってたこと
私はダウンタウンのお笑いの直撃世代ではないのだがそのせいでいまいち松本人志のお笑いがわからなくて昔からダウンタウンの番組はあんまり見ないようにしていた。大人になってからは避けていたと言ってもいい。だから「クレイジージャーニー」はここ一年くらい見れるようになった。ダウンタウンが見れない理由としてはスキャンダル以前の、松本人志も含めた周辺のお笑い芸人の女性蔑視的な発言ももちろん大きい。女性蔑視的な発言の内容に関してはまあわかる人にはわかることだと思うのでここでは語らないけれど、私は正直、彼や彼に近しい人間の女性蔑視的な発言がテレビに当たり前に流れて皆がそれを笑っていることがすごく怖かった。
この記事では、「ダウンタウンの直撃世代でないので松本人志のお笑いというかすごさがあんまわからん」という話をしたい。そう思うのはまず私と同じくらいかそれより上の人達が松本人志のことを「まっちゃん」と呼ぶのが個人的には謎でずっと気になっていたからだ。まっちゃん、ってめちゃくちゃ親近感のある呼び方なのでみんなそんなに松本人志を身近に感じているの? とびっくりする。森田一義をタモリと呼ぶのとは全然違う。浜田雅功が「はまちゃん」と呼ばれるのともちょっと違う。浜田雅功には半分くらい「ハマダ」がある(気がする)。けど、私の見ていない頃のバラエティに、視聴者が松本人志をまっちゃんと呼ぶ距離感の何かきっかけなり雰囲気があったんだろうなあと想像はできる。想像はできるけど、よくわからない。でもその親しさは熱狂的な支持の大きな要因なのだろうなとも思う。
松本人志が苦手なのは、どのバラエティを見ても松本人志が出ている限りは松本人志に対しては何も言えない雰囲気が漂っちゃっている気がするから、というのがある。たとえばIPPONグランプリでは、松本人志がチェアマンで大喜利の評価をする。ブロックの合間には、チェアマンとして松本人志も大喜利の回答を出したりする。その時のはにかんでいる松本人志の感じというか、たとえ60点くらいの点数の回答でも滑りの感じが出せないというか、出された答えに対して松本人志自身にしかどうこう言う余地がない感じが個人的にはすごい痛々しく見えた。近年の大喜利は流れで無理やり突破したりとか数をいっぱい出して滑りを織り交ぜたりとかすべての球で的確にホームランを出していくものではないことが多いので60点の回答でも全然いいはずなのだが、大喜利の競技の中で戦っているわけではないその回答は「面白い/面白くない」の基準から孤立して少なくとも「いい回答」であるという留保だけが漂う。他のバラエティでも感じる、松本人志が言ったコメントが面白い、ではなく、松本人志が言ったコメントだから面白い、みたいな空気。でもその空気を感じたとたん、面白がる前に気まずさが出てしまう。笑わなきゃいけないプレッシャーがある。でも笑わなきゃいけないプレッシャーなんて、笑えないシチュエーションの第一位だろう。「笑ってはいけない」から笑ってしまうように。
何でこんな気分になるんだろうと考えたところ、おそらく私は大喜利の歴史というか松本人志がフリップを使った大喜利を生み出したという歴史的感覚として共有していないからなのだろう。歴史を知らない私は松本人志を大喜利の開発者じゃなくいちプレイヤーとして見てしまうけど、多分ほかの人の見方としては違うんだよね。もちろん松本人志が漫才に革新を起こしコント番組だったりフリップ大喜利だったりを生み出したというのは情報としては知っている。でもその革命当時の熱狂とか驚きとかを私は知らない。そしてその「知らない」「体験していない」は、松本人志の笑いに対する評価の断絶を生み出しているんだろうなとも。
でも私はそういう風に気まずく感じること自体は松本人志自身のお笑い理論からも別にかけ離れてはいないと思う。というのも昔読んだ松本人志の著書で「お笑いは音楽とは違う。懐メロをありがたがる感覚で古いお笑いを面白がるのは間違ってる」と言ってたから。現代バラエティお笑いの創始者松本人志を知らなくても笑える、というのがおそらく松本人志にとっての理想でもあるだろう。どうでもいいけど私が松本人志の著書を読んだのは子どものころ訪れた祖父母の家で、お笑いなんか全然興味なさそうな祖父母が「遺書」と「松本」は買ってたのだからマジですごかったんだなというのはわかる。
で、本題なのだが、私には長年どうしても理解できないものがある。それは「笑ってはいけない」における、松本人志へのマッチョいじりだ。「笑ってはいけない」にはまあみんな知ってるとは思うけど一定のフォーマットがあり、ダウンタウンとココリコと月亭方正があるシチュエーションに放り込まれていろんな面白いことが起こる、それに対して笑うとケツバット、というものだ。笑いを起こす仕掛けはいろいろあるけれどたとえば、シンプルに豪華ゲストが5人の目の前で面白いことをして笑わせる(ものすごい余談だが杉咲花とマツコ・デラックスがバスに来た時、杉咲花の演技があまりにうますぎてマジでびっくりしていまだにびっくりしている)もの、5人にまつわる何らかの情報を持ってきていじって笑わせるもの、そして特定のお題に挑戦して大抵の場合はうまくいかなくて笑ってしまうもの、などがある。5人にまつわる何らかの情報というのは各人の私生活だったり各人の特徴だったりするのだけれど、その各人の特徴の選び方について、私はずっと疑問を感じていた。たとえば浜田雅功の場合はお化け唇とか見た目についてのものだったり、ココリコや月亭方正に対してはバカとかポンコツとか性格や能力的な部分をいじる。このいじりの中身が、松本人志の場合は「マッチョ」「筋肉バカ」なのだ。なんじゃそれ、と毎回見るたびに思っていた。見た目のこととか仕事がうまくできないとかそういう部分は自分で何とかできることもあるけど基本的には生まれついてのものだったりかなりの労力を割かないと変えられないものだったりする。でもぶっちゃけ、「筋トレしてる」は自分の意志でやっていることだし、いじられるのがいやだったらその日のうちにやめられる。もちろん筋トレなんか普通のことなのでいじられたからってやめる必要はないし、本来的にはいじられるようなものでもない。金髪とかも同じで、自分の意思でやってるものなので変えようと思ったらすぐに何とでもなるやつの筆頭だ。こういういじりの中身を考えている作家の中には松本人志本人も含まれているはずで、「なんか……それでいいのか……? 自分だけ?」と思ってしまう。
で、こういうことを言うと「当時は筋トレは馬鹿にされる趣味だった」みたいななかやまきんに君受容の変遷みたいな指摘をされるのだけれど、重要なのは筋トレは松本人志が自分の意志でやってる趣味だよという部分なのだ。
面白い面白くない以前に、私はこの非対称性が気になって、各人のいじりのネタの時はどうしても真顔になってしまっていた。ただでさえいじめっぽいのに、5人の中に一人だけ人狼がいるみたいな……みんな変だと感じていないのかなあと気になって周囲に聞いてみることあるのだけどだいたい「何が?」みたいなリアクションになるので私が気にしすぎなんだろう。
でもこの非対称性こそが、私が松本人志のいるバラエティ番組に対して感じる違和感の原因の一つだったのだとも思う。それはたぶん、松本人志をまっちゃんと呼ぶような距離感の、松本人志のすごさ、松本人志がお笑いを変えていく様子をリアルタイムで見ていた人には気にならない類のものなのだろう。新しいお笑いをたくさん生み出したがゆえに自身の若い頃の主張とはかけ離れた、巨大なお笑いの文脈を松本人志本人が背負ってしまった、という言い方もできるのかもしれないけれど……やっぱりそれって、面白さとはかけ離れたものなんじゃないかなあ。
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