老害、昔を振り返る その1
リクエストがあったので、ちょっと昔話をしてみようと思います。
年代としては、むかーしポケモンカードをプレイしていた2001年~2007年頃。内容としては、自分の目線から、過去の栄光を垂れ流す感じになるので、自分語り苦手な人はここで引き返してください。
今回は2001年春から2002年春まで語ります。
1.ポケモンカードをはじめたワケ
2001年3月 ゲームボーイカラー専用ソフト ポケモンカードGB2 GR団参上! が発売。
2001年4月 旧裏最後の拡張パックである ポケモンカード★neo 拡張パック 第4弾「闇、そして光へ...」が発売。
簡潔に言えば、ポケモンカードGB(ゲーム)をきっかけにポケモンカードを始めた感じです。
当時のインターネット事情が絡むので、そこら辺から話します。
2001年ぐらいの頃は、ようやく個人宅にもパソコンとインターネットが普及し始めた時期でした。その関係か個人のホームページが次々と作られて、もっぱらそこの掲示板やチャットが交流の場でした。
ポケモンカード界隈も例外ではなく、現在はポケモンカードで検索しても公式サイトや数多の通販サイトしか出てきませんが、当時は個人のホームページがたくさん出てきました。
初めて触るインターネットはとても楽しくて色んな情報を1日中読み漁っていたのを覚えてます。同じ趣味の人と絡めるのもすっごく楽しくて見事にはまってました。イメージしづらい人は、自分がSNSを初めて触ってどっぷりハマった時期を思い出してください。大体同じ感じだと思います。
情報を読み漁ってるときに、てるてるさんという方のホームページに辿り着きました。てるてるさんは、その春の日本一決定戦(現在のチャンピオンズリーグ)優勝者でした。当時の僕は個人のホームページを巡って大会レポートを読み漁ったりデッキレシピを見るのが大好きで、やばいホームページを見つけて大興奮したのを覚えてます。
今なら絶対やれませんが、当時はマナーもクソもないインターネット覚えたてのクソガキです。掲示板に、大会レポートを読んだ感想を書き込んだのを、きっかけにガンガン絡んで色々教えてもらいました。
今で言えばヨネダ タクヤ選手のTwitterに突撃したようなもんです。正直よくブロックされなかったなと思いますが、現在に至るまでの考え方の基礎基本は全てここで身についたと思います。
平行して、界隈のプレイヤーが集まる大手のサイトでも交流を深めていきました。多分、そこでの話がきっかけだと思うんですが、夏に「バトル★ネオ サマーロード2001」という大型大会があるということで、公式大会に出場してみようという流れになりました。
始めたばっかでカード資産がほとんどない状態からでしたが、始めた時期がよかったです。
当時最新のエキスパンションは、ひかるポケモンがたくさん収録されてる ポケモンカード★neo 拡張パック 第4弾「闇、そして光へ...」だったため、こればかり買い漁ってたので、ひかるカブトプスとひかるハガネールを持ってました。現在でも数万円で取引される高価なカードですが、当時もなかなか高レートでトレードされていたので、これを元手にカードをかき集めてデッキを組むことができました。
ある程度カードを集め終わったあたりでポケモンカードの裏面が変更されることが発表されました。
大丈夫!?って思ったんですけど、だいじょばなかったですね。
2.バトル★ネオ サマーロード2001
2001年7月20日-8月12日――― 「バトル★ネオ サマーロード」開催!
現在のチャンピオンズリーグと違い、当時の公式大会は年2回開催。
時期的には春と夏に行われていて、回数が少ない代わりに全国開催で開催されていた。またシティリーグに該当する大会はなかった。
北海道、東北、関東、中部、関西、中国四国、九州の各会場で大会が地区大会が行われ、各地区で優勝したプレイヤーは、「バトル★ネオ サマーロード 日本一決定戦」で日本一を決める決戦に挑む。
最寄りは中国四国大会だったので、そちらに参加しました。
当時の予選は、1グループ6~8人程度で、3戦して一番成績のいい人が抜ける感じでした(その後、決勝トーナメント)
スイスドローとかじゃなくて、テーブルの対面が横にズレていって3回対戦するだけって感じだったので、同じテーブルの中で3勝が複数なんてことも珍しくなく、勝ち点が同数の場合はオポネントではなく、サイドカードの数で決めてました。現在も一部店舗に残るサイド差で順位を決める習慣はこの時代の名残です。
また、この大会では、予選で自分のデッキを使うことができず、公式が用意した2つの構築済みデッキから1つを選択して使う形式でした。プレイングの介在する余地がなかったとは言いませんが、前述の予選形式もあいまって、かなりの運ゲーでした。
結果は1勝2敗とかで、あっさり予選落ちして初の公式大会はあっさり終わりました。
せっかく組んできたデッキを使わずに終わるのも忍びなかったので、フリー対戦のコーナー(勝つと多少の景品がもらえた)で1日中遊びました。九州大会にも遠征して同じようにフリー対戦で遊びまくったんですが、両会場あわせて30戦ぐらいして全勝だったのを覚えてます。
これは僕が強かったわけではなくて、ネットが普及して間もない時期だったのもあり、プレイヤー間の情報格差がえげつなかったせいです。強いデッキタイプを使ってる云々以前に、ドローサポートすら満足に積んでないデッキやスリーブすらつけてないデッキを持ったプレイヤーがその辺に溢れており、正直ただのサンドバッグでしかなかったので、「それは対戦だったのか?」と問われると微妙なところです・・・。
1ヶ月後、初参加した店舗大会でも優勝して最高潮に天狗になってましたが、後に地元の強豪にわからされることになります。
ちなみにこの時期使っていたデッキですが、カツラのウィンディ+バクフーン(NEO1)のデッキを使っていました。マグカルゴに殿堂ポイントがかかって、無水にも規制が入った旧裏後期の中では、それなりに強力なデッキだったはず。Twitterのアイコンがウインディなのはこの時期の名残です。
3.バトルロード スプリング ★ 2002(概要)
2002年3月9日-4月7日 「バトルロード スプリング ★ 2002」開催!
・マスタートレーナーズリーグが新しく登場した。
・ポケカ史上初めて予選で自分のデッキが使えるようになった。
・サポータールールの導入。
これら3つの新要素も加わり、新しい時代の始まりを感じさせた。
前回同様、北海道、東北、関東、中部、関西、中国四国、九州の7会場。プレイ人口の多い関東と関西は2日開催で大会が2回行われていた。日本一決定戦は行われなかったため、地区大会優勝が最高成績となる。
まあ、実際は暗黒期まっしぐらなわけですが、まだ知りませんでした。
・マスタートレーナーズリーグが新しく登場した。
今でこそ当たり前ですが、実はここでマスターリーグができるまで、大学生以上はポケモンカードの公式大会に参加できませんでした。
また、16才なら誰でも出場可能であったため、16才以上の高校生はシニアかマスターどっちか選んで出場することが可能でした。僕はとりあえず大学生の大きなお兄さん達に酷い目にあわされていた時期だったので、素直に尻尾巻いてシニアリーグに出場しました。
・ポケカ史上初めて予選で自分のデッキが使えるようになった。
この大会以前は前項のように構築済みデッキを渡されて、それで予選を行っていましたが、今大会から、後述するハーフデッキルールのものではありますが、自分のデッキを使えるようになりました。
・サポータールールの導入。
これは現在のサポートルールとほとんど同じものです。恐ろしいことに、このルールが導入される前は1ターン中に無制限にサポートの使用が可能で、デッキを好きなだけ掘ることができました。
現在との相違点として、サポーターを使ったら自分のバトル場の横におき、自分の番の終わりにトラッシュするというルールがありました。これが後に悲劇を招くのですが、話がそれるので最後に語ります。
ここから、ちゃんと使用デッキを解説していきます。
4.バトルロード スプリング ★ 2002(予選)
予選のレギュレーションではハーフデッキルールが採用されておりました。
その名の通り、デッキ枚数は半分(60→30枚)、同じカードの枚数も半分(4→2枚まで)、サイドカードの数も半分(6→3枚)、制限時間も半分(20分→10分)というルールです。
サイドカードが少ないだけあって、大概先攻ゲーな上に、後述のエネルギーリムーブ(現在のクラッシュハンマー)の採用率の高さから運ゲー要素も非常に高かったですが、とりあえず自分のデッキが使えるようになっただけでも画期的でした。
予選の使用デッキはこちら。当時環境でトップメタだったイブキのキングドラ+ヤナギのニューラのデッキです。
20年近くたった今見ると進化前のたねポケモンにも負けそうな低スペックですが、これでも当時の最強スペック同士を掛け合わせたグッドスタッフデッキです。
カードプールがポケモンカードVS+ポケモンカードe1だったので、環境の特徴として、基本的にエネ加速が存在しません。
結果としてエネルギーリムーブが異常に強く、コイン2裏でワザそのものが失敗というリスクを抱えてることを差し引いても、イブキのワザマシン02 たつまきの破壊力は凄まじいものでした。まあ、1/4という結構な確率で失敗するので、当時のポケモンカードプレイヤーは「エネルギーリムーブ2裏で負けた」「たつまき2裏じゃなきゃ勝ってた」あたりが口癖でしたが、このデッキがその他のデッキに比べて、頭4つぐらい抜けてたので、勝ちたければコイン運ゲーに身を投じるのが一番可能性が高い選択でした。
そのため、後続の育成も結構大変で、きずぐすりやモーモーミルクで既存のリソースを大事にすることも非常に効果的でした(当時はエラッタ前で20回復、20×回復であったにも関わらず)
火力はせいぜい40~50が限界なので、きずぐすりを2枚使ったり、モーモーミルクで2枚表を出すなどで40回復は試合の行方を左右する破壊力がありました。当時のプレイヤーはワンチャン捲れるモーモーミルクか安定のきずぐすりのどちらが強いかでよく議論してましたね。
上記のようにコインゲーの要素が非常に強く、当時一番効果的なイカサマは、積み込みではなくパストス等のコイン操作でした。
予選は前回同様、全部で3回戦でした。
この時、予選の1回戦で当たった相手がなにものかさん(初対面)でした。相手のデッキもイブキのキングドラ+ヤナギのニューラ。当時のtier1デッキの普及率の低さから考えると初戦からなかなか厳しいマッチングでした。
しかし、相手が強者だろうが運で押し切れば関係ないのが当時のポケモンカード。先攻を取った上で、エネルギーリムーブ表で相手の動きを封殺。相手のエネルギーリムーブは「かわせ!」で乗り切り、たつまき2枚表で追い打ちをかけて圧勝。そのままの勢いで全勝で予選突破しました。
※不正はなかった。
5.バトルロード スプリング ★ 2002(予選)
本選のデッキです。カードプールはポケモンカード NEOシリーズ+ポケモンカードVS、Web、e1といった感じでした。
環境の特徴として全体的にテンポが遅いと考えてました。強力なたねポケモンは、レギュレーション外であるか厳しい殿堂がかけられており、2進化ポケモンもポケモン育て屋さん(ふしぎなアメ)が使えない状況。
更に既存デッキ全てに共通しますが、サポータールールの導入が足枷になってました。サポーターが導入される前のポケモンカードゲームは使用無制限のドローソースでいくらでもドローできたので、サポーター以外のサーチカード(ボール系)が脆弱で、デデンネGXやクロバットV、カプ・テテフGXのような特性を持つカードの登場も数年後のことになるので、安定性も再現性も皆無。普通に構築したら3ターン目に2進化ポケモンを立てて、毎ターンエネを手貼りできればブン回りと言われるレベルでテンポの遅いデッキしか作れない状況でした。
しかし、環境が求めていたのは、序盤から早いテンポで殴って相手を押し切れるデッキでした。なぜなら決勝、準決勝以外はサイド4枚戦だったので。
どれだけテンポが重要だったかと言うと、キャタピーにエラッタ前の悪エネルギー(悪ポケモン以外に貼っても打点が上昇した)を貼って、プラスパワーとちからのかけら貼りまくって殴るデッキが、結果を残していたほど。当時はほぼ進化ポケモンしか環境に存在せず、進化前のたねはHP50もあれば強カード。極めつけにカードプールに突風(グッズ版ボスの指令)が存在し、Nやリセットスタンプに該当するカードも存在しなかったので、テンポとってマウントとる戦術が死ぬほど強かったです。あと、このデッキに関して言えば、当時は先攻1ターン目にワザが使えていたので先攻1ターンキルすら可能でした。
そんな環境で猛威を振るったデッキがエンテイ+キュウコン(Web)のデッキでした。エンキュウとか怨恨(MTG由来)と言われてました。余談ですが、この頃MTG由来のデッキ名はちょくちょく見ましたね。スライとか無水(NO WATER)もそうですし。
エンテイのおたけびでキュウコンを育てて、だいもんじ80ダメージを連打するだけのデッキですが、シンプルに強力でした。2進化がほとんどいない環境でだいもんじを耐えれるポケモンは存在せず、環境内はテンポが遅いデッキがほとんどだったため、サイド4枚戦なら、ワザの特性上、後続が育たないにも関わらず、最初の1匹でそのまま押し切れる破壊力がありました。また、かどわかすでベンチを呼んでワンチャン作れるのも非常に強かったです。
僕もエンキュウを好んで使っていて、感触も悪くなかったのですが…
大会直前にイシツブテ(NEO3)にちからのかけらとプラスパワー貼りまくってぶん殴るデッキを教えてもらったので、そちらを使うことにしました。ロコンがおたけびで加速した直後に、突風、プラスパワー2枚、ちからのかけら貼ってぶん殴って落としたときは脳汁でました。
前述のキャタピー速攻との違いは、イシツブテで相手の起点を潰してテンポをとってしまったら、大体返しでイシツブテ生きてるので、そのままゴローンに進化して追い打ちをかけれることです。ゴローンも当時の1進化ポケモンの中では、最強格と言って差し支えない性能でした。一応ゴローニャ(e1)に進化する択もないことはなかったですが、進化せずに後続の育成に入ることの方が多かったかもしれません。
またサポーターは1ターンに1回しか使えないため、最小限に絞って、マサキのメールと何故かサポーター化を免れたクルミを使ってブン回してました。
※旧裏のサポーターに該当するカードは(オーキドはかせ等)はレギュレーションでサポーターとして扱うルールがあった。クルミも当然サポーターに該当するカードかと思いきや、なぜかサポーターにならず現在のグッズ扱いで好きドロー放題できた。
結果は準決勝で身内のゲンガー(e1)デッキに負けてベスト4でした。ゴローンやゴローニャのワザで貫通できるとは言え、抵抗力-30は普通に厳しかったです。この後、長期間tier1に居座るカードですが、当時は少し甘く見ていたところもあったかなと思います。
「素直にエンキュウを使っていれば・・・」と、思わなかったわけではないですし、なんなら相手にも言われましたが、この当時から横道に逸れるのが大好きなので仕方がないのです。
入賞商品で№3トレーナーがもらえました。左上は実名入ってるんで消してます。
6.オマケ ‐サポータールールの悪用‐
「サポーター」は、自分の番に1回だけ使うことができる。使ったら、自分のバトル場の横におき、自分の番の終わりにトラッシュする。
この「自分の番の終わりにトラッシュする。」という記載を逆手にとって、誤ってサポーターを使用後にトラッシュした対戦相手に対して、「サポーターをトラッシュしたということはターンエンドですよね?」と超理論を展開して、ターンエンドに追い込む行為が行われたらしいです。
今回はここでおしまいです。次回は2002夏~2003夏を語っていきたいと思います。いいねが少ないと打ち切りになるのでなんかモチベーションあがる感じにしてくれたらうれしいなと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?