Arjuna
たとえば、私はそれが好きで親しみが湧くのに、誰かはそれが苦手で嫌い。
その忌避感を自分のもののように感じることはできるけれど、私はそれが好きであるが故に私のものではないと認識できる。
共感は、そのものになることではない。
そのものになるということは自分の座標を捨てた錯覚だ。
たとえば、誰かと交流して胸の中心が熱く充足する体感がある。それがほんの僅かなやり取りでもだ。
その人を感じた自分がいるように、自分を感じたその人がいる。同じように感じているか否かは問題ではない。
相手と私はイコールではない。
同じものを見ていないなら、それは錯覚かというとそうではない。
異なるレイヤーが重なり合い、像を浮き彫りにするか倍音になる。
共感も共振も己をゼロにすることではない。
座標同士は常に掛け合わされている。
イコールの向こうに常にあるのは総体としての宇宙だ。
泣いている誰かの為に共に泣くのは、振動数を重ねて自浄を促し合うことに近い。
誰かが泣いている故に冷静になるのは、コントラストを高めて、居られない座標の為に強く在るということ。
己の座標の純度を引き上げようとするなら、掛け合わされる座標は共振し、イコールの向こうの解像度も高まる。
内にあり、外にもまたあるということは、そういうことだ。
そして、孤独とは孤立ではない。
手のひらを構成する分子と分子の空隙。
座標のひとつ、振動を生む一滴としての己が推し量ることのできる有限と無常に耳を澄ませ、肌を澄ませ、イコールの向こう側の響きを聴き取る細分化の余地である、ということだ。
その響きは内にも外にもあると感じることのできる存在であると受け入れる余白。
do what you have to do.
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