読書感想文(256)恩田陸『三月は深き紅の淵を』
はじめに
こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。
今回は、昨年読んた中で一番印象に残っていた本の再読です。
以前読んだ時も感想文を書いているので、載せておきます。こちらを読み返してみると、当初かなり困惑していたことが窺えて、ちょっと面白かったです。
感想
今回は、少し身構えて読み始めたので、前回ほど混乱することはありませんでした。しかし、やはりこの小説を理解できた気はしません。何がどう繋がっているのかわからなくて、そもそも繋がっているからなんなのかという気もします。不思議な読後感です。
前回は四章の構造に困惑して、意識がそちらに向いていましたが、今回は一章と二章が特に印象に残りました。
とはいえ、この本の恐ろしいところは、その時は全然意識していなかった部分が後になってから急に思い出されたりするところです。今年ももう四分の一が終わろうとしていますが、年の瀬に何を思い出すのか、楽しみです。
そういえば、四章で憂理が自分の名前について「ことわりを憂う」と言います。
そこで初めて、理瀬が「ことわりの瀬」であることに気づきました。
淵と瀬は対になる言葉です。だから何なのかというと今はわかりませんが……。
なぜここが印象に残ったのか考えてみると、恐らく岡本太郎の言葉に「瞬間瞬間を生きる」といったものがあったからだと思います。本質的な所が同じなのかどうかわかりませんが、こうやって言葉だけが繋がっていくことがよくあります。ある意味、表層的な思考とも言えますが、点と点が繋がっていくことで、線、図形ができ、深みが増していくものだとも思うので、しばらくは思うままに考えていこうと思っています。
この部分が引っかかったのは恐らく『サピエンス全史』の影響です。
これは私見で現状分析を行なっており、「みんな幸せにならなかった」としつつ、解決策は提示されていません。
そもそも幸せをどのように定義してどのような基準で捉えるかは難しいですが。
「自分は外側の世界にいたい」というのはとてもしっくりくる表現です。いわゆる陰謀論や怪しい勧誘にハマってしまうのは、「皆知らないことを自分は知っている」という優越感や安心感が一因ではないかと思っています。
世の中の色んな考え方は大抵なんらかの前提があります。その前提が絶対的なものでないことは意識しておかなければならないと思います。
なんてことない一節ですが、ミステリ好きが集まった第一章で出てくると、ふと憂国のモリアーティの「グレープフルーツのパイ一つ」が思い出されました。
奇しくも「イングリッシュ」です。
こんな感想は作者の意図と独立しているかもしれませんが、もしかすると有名な古典ミステリにグレープフルーツのトリックがあったりするのでしょうか?
いいですね、大学生の頃にこれを知りたかったです笑
これは、数学の定理が世界に既に存在していて、数学者がそれを発見する、という神秘に少し似ている気がします。或いは、夏目漱石『夢十夜』「第六夜」の彫刻の話にも通ずる所がある気がします。
眠ったり食べたりはあった気がしますが、『夜のピクニック』に通ずる所がある気がします。
大きな喜びや苦痛なく、ただ前に進み続けたい、或いは進んでいる実感がほしいということなのでしょうか、わかりません。
今改めて書きながら読んでみると、それほど共感できない気がします。ただ、こういう考え方もあるのかなぁと思いました。今後、メリーゴーラウンドを見たら、この一節を思い出すのかもしれません。
おわりに
今回もまとまりの無い感想文となってしまいましたが、今の自分の理解度に合っている気がします。
またそのうち読み返したいです。
そういえば、奇しくも、近いうちに出雲の方へ向かう予定です。
寝台列車には乗りませんが、出雲夜想曲や第四章に思いを馳せながら旅をしたいと思います。当初予定にはありませんでしたが、時間があれば月照寺にも立ち寄りたいなと思いました。もし立ち寄れたら、次にこの本を読んだ時「そういえば読んだな〜」と思えるので、楽しみです。
ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。
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