真夏の海は、朝にさよなら
「いつも!やりたいことがあるって言うくせに具体的な努力なんて何もしてないじゃん!そこが見てていらいらするの!今の時間は何の為にあるの?いつやりたいことをするの?今の会社も、仕事も、上司も、部下も、同僚も、あなたのやりたいことに何か関係があるの?今のあなたの生活は、やりたいことに繋がっているの?繋がってなんかないよ!この先この道を歩いて行ったって、どこまで続けていたって、一生やりたいことなんて出来やしないよ!そんなにやりたいことがあるなら、さっさと辞めて、少しでも繋がる道を見つけなよ!結局、行動を起こして、でもうまくいかなくて、それで落ち込むのが怖いだけだよ!それが嫌だから、あれがしたい、これがやりたいって、いつも口に出しているだけ!そんなのただの妄想でしかないよ!妄想は、いくらしたところで所詮妄想でしかないの!思い描くだけでは実現しないの!やりたいことがあるなら、やりたいって言っちゃダメなの!本気でやりたいなら、やるって言わなきゃダメなの!やりたいって言葉には何の力もないの!絶対やる!って言って初めて、やりたいことに近づくの!お願いだから、やるって言える勇気を持ってよ!」
正直、彼女がここまで言うとは思わなかった。いつも穏やかで、俺の三歩後を静かに着いてくるような彼女が。俺が将来の壮大過ぎる夢について、どれだけ熱く語っても、いつも「すごいね、頑張ってね」と、微笑んでくれていた彼女が。
驚いたと同時にすごく新鮮だった。
一気に喋り過ぎたせいで呼吸が荒くなり、耳まで真っ赤にしてハアハアと息を整えている彼女を見ながら、こんな一面があったんだなぁなんて呑気に考えていた。
彼女は一体いつから、こんな思いを抱えていたのだろう。俺が夢について語っている時、本当はいつもいらいらしていたのだろうか。
彼女の呼吸が整いつつあるのと同時に、驚きによって回転速度を落としていた俺の頭が段々と冷静さを取り戻し始め、さっき彼女が決死の思いで述べた俺への怒りを、少しずつ反芻することができた。
俺にはやりたいことがある。いつも彼女に言ってきたことだった。最早口癖のように、将来の話になると必ずそう言ってきた。その度に彼女は応援してくれて、励ましてくれた。何回同じ話をしても、どれほど壮大な夢を語っても、馬鹿にすることもなく、ただうんうんと頷いて、最後には必ず、頑張ってね、と優しく微笑んでくれた。俺にとって彼女は一番の理解者であり、支持者であり、味方だと確信していた。だから、彼女に話すというだけでいつも自然と安心して、果てしなく届きそうにない夢を、惜しげも無く口にすることができたのだ。
たとえ、やりたいことに全く関係ない会社で、やりたくもない仕事に毎日汗水流していても、彼女に語り続けることが、いつか夢へと導いてくれると思っていた。思いたかった。とにかく、口に出すこと、誰かに聞いてもらうこと、そしてそれを認めてもらうこと。これだけで、自然と全てが満たされていた。本当は、もう夢なんて叶わない。今の生活を変えることなんて出来ない。がむしゃらに努力し続けることの怖さを、味わいたくない。そんな弱気な俺をずっと隠して、見て見ぬフリをして、ただひたすら彼女に語りかけていた。
いつの間にか彼女の呼吸はすっかり整って、2人の間には重い沈黙が流れていた。彼女は俺を真っ直ぐに見つめて、少し不安げな顔をしていた。おそらく、すっかり黙り込んでしまった俺を見て、逆ギレするのではないか、言い過ぎて本当に傷つけてしまったのか、などと心配しているのだろう。そんな不安は抱えているものの、彼女の表情から後悔は感じられなかった。ずっと溜まっていたしこりを吐き出して、心なしかスッキリとした表情だった。
「怒ってるの?」
沈黙に耐えかねたのであろう彼女が、ついに口を開いた。
「怒ってないよ。」
できるだけ、いつも通りのトーンになるよう、気をつけた。本当に怒ってはいないけれど、気を抜くと拍子抜けした声が出そうだった。
「頑張ってね、って、わたしいつも言ってきたよね。」
彼女が少し俯いて喋りだした。鎖骨の辺りまで伸びた黒髪が、かけていた左耳からするりと落ちて、彼女の顔に陰を作った。
「わたし、本気で言ってたの。あなたが本気でやりたいなら、こっちも本気で応援するって決めてたの。だから、いつも、どんなこと思っても絶対頑張ってねって言うって決めてたの。」
「だから、わたしが本気で言った分、あなたも本気でやってくれるって信じてた。すぐに結果を出せなくたって、どうにかして道を見つけようとしてくれるって思ってた。」
「でもあなたは本気じゃなかった。」
彼女が顔を上げた。今まで一度も見たことのない、綺麗な目をしていた。
「悲しかったの。」
きらりと輝く彼女の瞳から、ぽたりと雫が零れ落ちた。その光景を見た瞬間、俺は朝日に照らされた水面が、光を反射してキラキラと輝く景色を思い出した。小さい頃に、家から五分の距離にある海に出かけた時に見た、あの景色だった。
「悲しいの。本気じゃない人に、本気でぶつかること、こんなに虚しいって思わなかった。勢い良く投げたボール、でも取れるように優しく投げたボールを、キャッチする素振りさえ見せずに落とされた気分。わたしが一方的に当てていたの。こんな虚しいこと、他にないよ。」
彼女の瞳の小さな海から雫が落ちたのは、ただ一度だけだった。その大きさには充分過ぎるほど潤ってはいるけれど、先ほどふいに溢れたあの雫のように次の一粒が落ちる気配はなかった。
「もうこれ以上、頑張ってなんて言えない。」
本気の言葉をこれ以上、無駄にはできない。
彼女の訴えは切実で、悲痛で、正論だった。
応援してくれる人に、永遠に頑張ってと言わせること、言い続けてくれるだろうと期待すること、それでいて何もしないこと。
自分の希望を何度も何度もぶつけておいて、返ってきたものは何も受け取らない。彼女は、一方的にぶつけていたのは自分だと言ったが、俺こそそうだった。本気をぶつけてくる彼女のことは無視しながら、驕りや妄想ばかりを投げ続けていた。話す度に大きくなるそのボールを、彼女はなるべく心の真ん中で受け止めようと、いつも構えてくれていたのだ。暴投にしか思えない球でも、どこまででも走って取りに行き、全力で投げ返してくれていた。それを無視してまた俺は、次の一球へと手を伸ばしていた。
投げ続ける自分と、受け止め続ける彼女の姿を思い浮かべて、心の中で何かが軋む音がした。
あまりにも残酷すぎることを、彼女にし続けてきた。その自覚が、ようやく俺を正気にさせた。
「俺は、やりたいことがある。」
すっかり水が引いていた彼女の海が、俺の言葉をきっかけにまた溢れそうなほど潤い始めた。
「…知ってる、だからそれを、」
「だから俺は、」
彼女の言葉を遮って、俺は真っ直ぐに彼女の海を見つめた。
「やるよ。」
「君がもう、見ていてくれなくても。君がもう、俺の言葉を信じられなくても。君がもう、何も投げ返してくれなくても。」
「やるよ。」
もう溢れることはないと思っていた小さな海から、再び一粒の雫が落ちた。
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