見出し画像

【文京区】文京宮下公園と巣鴨大鳥神社

ちらっと巣鴨にある文京宮下公園にいってまいりました。
街中にあるなんてことない公園です。

思い出といえば

2004年~6年くらいの話になりますか、この公園の近くにブラジリアン柔術の道場がありまして、私はそこに通っておりました。

ブラジリアン柔術とは一言で言いますと柔道の寝技に特化したようなスポーツで、汗まみれで組んず解れつするわけです。

この運動効果たるや素晴らしく、例えば外を20分走ってもそんなに汗はかかないと思いますが、対人競技というのは、自分のサジ加減だけではどうにもなりませんから、こっちが引っ張れば相手もひっぱり、相手も引っ張るからこっちも引き返す、そんな行ったり来たりを繰り返すうちに4、5分で汗まみれになるのです。

練習が終わったあとは重たい道着が汗を吸ってさらに重たくなります。

その道着をバッグに入れて原チャリで移動していたのですが、

当時ちょうどこのあたりで職質にあったんですよね。

「どこ行くんですか~」

「家に帰ります」

「ちょっとバッグ見せてもらえませんか」

「はい」

ジーッとジッパーをあけバッグの中身確認。中には汗だくの道着。

「あ、大丈夫ですーちょっとこの辺りでひったくりがあったんで」

とお巡りさん。汗だくの道着の匂い嗅がせちゃって悪かったなと思いました。

職質は生まれて初めてでしたね。フルフェイスのヘルメットだからかな。

その後、ブラジリアン道場は移転し、付近にあった懇意の整骨院さんも、私が整骨院に行くほど練習を詰めてやらなくなったために、足が遠のき現在に至るのでありました。

このあたりにはそんな思い出があります。

こんなブランコが当時あったかどうかは覚えていませんが
みた感じ古いからあったのでしょう。
奥の金網はあった記憶があります。上野動物園みたいな金網だなと思いました。
公園北側の交差点、このあたりは碁盤の目のように整理されている地域です。珍しいと思います。
現代の地図。北側が巣鴨。白山通り。碁盤の目にようになっているのって結構珍しいです。今まで140回ほど東京時層地図でみていますが、こういうのはお目にかかっていないですね。
江戸時代末期1855年頃

いわゆる長屋でしょうか。巣鴨あたりから名字をもった武士が住んでいたことが地図では確認できました。街道沿いに武士を住まわせることによって、防衛ラインの役割を担っていたのかとおもいます。

この時代は名字があるのはほとんど武士という認識は間違ってないですよね??(庶民でも名字があったという研究もあるらしいですが、公的には名乗れなかったということなので、地図に書かれているものは武士であるという判断をしています)

ほど近くに

子育て稲荷社 別当 霊感院

という表記が見えます。現在の巣鴨大鳥神社になります。

霊感院では時を告げる鐘を鳴らしていたそうです。1864年に境内で「酉の市」が始まったようです。ちょうどこの地図の時代ですね。

ここの酉の市には一度行ったことがあります。
その当時は今のように地図にも土地土地の歴史にも興味がなかったので、大きな熊手を売っているんだなという感想しか持ちませんでした。

「酉の市」の起源は諸説あって

・御祭神のヤマトタケルが亡くなったのが11月酉の日だから
・11月の酉の日に日蓮上人が祈ったところ鷲の乗った菩薩が現れたから
・元々は足立区にある大鷲明神の周辺住民の収穫祭だったから

明治に入ってから神仏分離で時を告げる鐘のあった霊感院のほうは廃寺。

明治になってからの廃寺は結構多いです。

時を告げる鐘もみたところありませんでしたので、廃寺と共に消え去ったのでしょうか。

残っていれば新宿区の天龍寺の時を告げる鐘のように国の重要美術品になっていたかも?このあたりはたまたま偶然の運ですね。

最近はなんでも運なんじゃないかと思っています。


では東京時層地図にいってまいりましょう。

明治4〜5年 1873年ごろ

江戸時代の地図で長屋かと思っていたら、全然違って一軒家に畑がある感じ。茶畑は明治政府の政策だったはずだから、仕事にあぶれた武士が茶畑を始めたのかもと妄想。渋谷の鍋島公園近辺もそういう感じだったと思います。

明治39〜42年

巣鴨駅南口にでんと陣取る大豪邸が現れました。

溝口邸

越後新発田藩主の溝口直正邸かと思われますが、

なんでも元はここは徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜の巣鴨邸跡。

徳川慶喜は明治維新後、駿府で30年間謹慎生活を送った後にこの地に居を構えたようです。明治30年1898年。

しかし、山手線が通る計画を知り、駅の近くには住みたくないということで、わずか4年で茗荷谷に移ってそこが終焉の地になったのだとか。

このあたり慶喜の次の徳川宗家の徳川家達が千駄ヶ谷の駅近くに居を構えていたのとは正反対ですね。まあでも、巣鴨邸はあからさまに線路沿いすぎるかな。

溝口直正ですがウィキペディアによると廃藩置県後に巣鴨に移住して、家運が傾いて家宝を売却し、明治31年1898年に赤坂に引っ越したと・・・

でも明治39〜42年の地図にも溝口邸と書かれているから齟齬が出る。

長男の直亮は明治10年1878年生まれなので、当時の二十歳といえば立派な大人なのでこちらに住んでいたのかもしれません。

ウィキペディアを信じてしまうと危ういのがこんなところ。

大正時代 関東大震災前

地図で見る限り神社もだいぶ小さい神社です。現在の神社も小さいですが、当時もかなりの小ささ。

このクラスの祠だと、歴史の波に揉まれて無くなってしまう祠を今までもたくさんみてきました。

今現在に残ってお祭りもあるということを考えると、地域の方々に大切にされているのだろうなということがよくわかります。

そう考えるとそれだけでご利益があるように思えてきますね。

昭和初期戦前

溝口邸が無くなってしまいました。
やはりWikiに書かれていたように、赤坂引っ越したのでしょうか。

このあたりは空襲がひどく社殿も何もかもが焼けてしまったようです。
さらっと過去の出来事として述べてしまいますが、空襲のインパクトはものすごいですね。ほとんど何もかもが焼けて無くなってるなんて、言葉には出来てもちょっと想像が追いつかない。


1955年ごろ 高度成長前夜

巣鴨大鳥神社の不思議な話として

戦後の1949年、豊島区鬼子母神近くの武藤某さんという方の夢枕に
「東方に稲荷様がいて、社がないから、速やかに建立せよ」
といったらしいんですね。そして探し出してここに社を造営したと。

こういう逸話が残っているあたり、しかも微妙にあやふやな感じがまたまた周辺の方々に大切にされている感が出ていると感じます。

バブル期 1990年ごろ

突然出現する、文京宮下公園 なんの脈絡もないですが現れました。昭和41年に出来たのだそう。クチコミを見ると、公園の真ん中に喫煙所があって結構不評でした。僕が行った時は感じなかったのでもう喫煙所はないかもしれません。

公園の再整備計画が行われているようです。
話し合いも4回を越えていました。

公園内の鉄棒
子育て稲荷神社

大鳥神社の摂社と思わせつつ、江戸時代の地図を辿ればこの子育て稲荷社こそが本来の神様だったり。

あと失敗しました、なんとなく子宝稲荷かと思っていて、関係ないやとスルーしてしまった。子育て。まさに私が参拝すべき神社だったのです。次は必ずお参りに伺います。

割と小さなお社がある感じでした。
左側が社務所のようです。
ローカル感、手作り感が溢れる神社です。 昭和からの逸話も本当なんだろうなと思われる造り。
宅配業者の方が見えていて、そして留守のようだったので社務所で御朱印はいただかずに帰りました。今年になってから神社の正しいお参りの仕方を学んだので、今年は積極的に神社巡りもしてみたいと思っています。子育て稲荷はいくべきでした失礼しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?