【港区】品川駅
所用があって品川駅へ行ってまいりました。奥さん方の親戚がくると品川のツバメグリルで食事するというのが定番になっていて、今回は僕もそのついでに呼ばれたという形です。
過去にはここから南にある北品川の品川神社に一度行きました。
品川駅の南にある北品川。
おそらく品川駅ができる前は品川神社を中心にして北品川、南品川という区割りだったのでしょう。
今回は品川駅からツバメグリルにいっただけなので、周辺を散策するのはまたの機会となります。
現在
駅を降りるとプリンスホテルがそびえたつ。
ということは西武グループの持ち物。
これだけの大規模になると、ここは西武グループの根幹かもしれません。
次くるときは周辺を歩いて確かめたいですね。
江戸時代末期 1855年頃
江戸時代は海岸沿いの大名屋敷
大大名の薩摩藩の島津斉彬を中心に築後久留米藩の有馬頼成など。高台になっているので昔から良い土地だったようです。
明治初期 9~19年 1877~1887年
新橋横浜間の鉄道が開通したのが1872年なのでこの当時にはすでに鉄道は開通しています。品川駅は海の畔です。
なんで鉄道が海を走っているのだというと、鉄道開通には薩摩藩の西郷隆盛が反対していて、陸地を通ることになると薩摩の敷地に列車を通すことになり、それはまかりならんということから、海上を走らせることになったとNHKでやっていました。
明治末期 明治39年~42年 1906年~1909年
大名屋敷跡には竹田宮、北白川宮といった皇族が住居とします。
この時代は廃仏毀釈、神道を推し進めその頂点の天皇を中心とした国家を作っていくという体制ですから、皇族も明治期以降に東京に大きな邸宅を持つようになったのだとおもわれます。
北側には蜂須賀邸
明治維新の勝ち組大名である長州藩の毛利家もこちらに移転。
さらに南側には三菱の岩崎家。
皇族、長州藩主、岩崎と、ここは当時でも有数の一等地であることがわかります。今は埋め立てが進んでいますが、当時は海沿いで高台というのが良いんでしょうね。
海が見えるというのは本当にいいものですから気持ちもわかります。
大正時代 関東大震災前 1920年頃
竹田宮邸
朝香宮邸
北白川宮邸
毛利邸
が今のプリンスホテルに当たる場所です。
渡邊邸とはどちらさんとしらべてみたところ渡辺千秋のようです。明治期松には宮内大臣。皇族とのつながりも見えてきます。
長野県出身ということから薩長関係ないので、きわめて優秀な人だったのでしょう。御子孫も活躍されている方多数。
昭和初期戦前 1935年頃
宮邸は戦時中は改描
毛利邸は表記がなくなっています
地図の南ですが品川の東側は埋め立てが始まっています。
これも東京市長である後藤新平の都市計画なのか。
関東大震災後の東京の変わりようは道路の拡張、河川の整備、そして東京湾の埋め立てと規模の広大さに驚かされます。
きっと毎日東京の地図を見て構想を練っていたのでしょう。
後藤新平のお墓は青山霊園にあるとか。今度行った時にお墓詣りにいきたいです。
戦後高度成長期前夜 1955年頃
戦中戦後にかけて暗躍する日本のフィクサーともいうべき西武グループ創始者 堤康次郎の登場です。
強引な経営手腕で企業を伸ばしていきお金と権力を手に入れた風雲児。
戦後に皇族は公職追放となり、経済的に困窮したので土地を買ってその名なを冠したプリンスホテルを運営。
プリンスホテルの西に衆議院議長公邸がありますが、康次郎さんは1953年に衆議院議長になっていますので、自宅のようなものでしょうね。
バブル期 1990年頃
この時代は西武グループも隆盛期でしょうか。品川といえばプリンスという様子が見てとれます。
大名屋敷→皇族邸→西武グループ。
さらに時はながれて2023年においては
そごう西武も身売り、西武グループも一時の勢いはない様に思います。
旧皇族の土地を取得したプリンスの名前を冠している品川、芝は盤石でしょうけれど、その他のプリンスホテルは身売りが続いています。
気がついたら僕も持っていたセゾンカードはPayPayカードに変更。
もう20年近く持っているセゾンカードの永久不滅ポイントを運用して、任天堂スイッチを貰えるくらいになりましたが、もっと寝かしておこうかと思います。(最後関係ない話になってしまいました。次回訪問のさいには周辺もまわってみたいです。)
栄枯盛衰ですね。
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