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【品川区】品川神社、御殿山付近

品川神社編

アースダイバーの中沢新一さん的には 縄文の昔、岬の突端は神聖な場所として崇められていた聖域で、それは人が変わり時代が変わっても、聖域として残り続けているという説です。(本当かどうかは置いておいて)

品川神社はそんな説にドンピシャの場所です。

由緒は今から800年前の平安末期に源頼朝が海上の交通安全を祈願したのが始まり。

境内にある富士講の場所からの眺めは絶景で、目の前に広がる海を簡単に想像できます。大きなビルがあるあたりは明治期は海です。

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この高低差。階段を登るのが怖いくらい。実は後ろに回れば車で登れる坂もあります。

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神社にある富士塚。品川富士というようです。
男坂と女坂があり、こちらは男坂。かなり急なので現代基準だと危険ですね。


江戸時代は各地に富士山信仰があり、富士山を模した富士塚を作って参拝したのだとか。この品川富士はその中でも有数の富士塚です。

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本物の富士山もそんなに気軽に登れる山ではないのと同じに、この品川富士も覚悟を決めて登ります。

地形図はまさに岬の突端といった感じですね。古代に思いを馳せる・・・

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文明開化時 1876-84(明治9〜17年)

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品川の乗車場が見えます。
新橋ー横浜間の鉄道が開通したのが明治5年。
鉄道は古くから走っていたんですね。
今の品川富士からの眺めを想像すると、大きなビルが建っている辺りは全部海というか浜というか。
弁天社と記載がある神社は現在の利田神社(かがた神社)このあたり全部埋立地になるんですね。いまでも台場という地名が残ります。
東海道の宿場町で栄えている様子が伺えます。
南側はお寺が多い。

明治末期 1906-09(明治39〜42年)

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品川駅から南に、森村、岩崎、原、伊達、西村、日比谷、益田などの大邸宅が現れます。
お屋敷ばかり。
この時期の大邸宅は薩長土肥の成り上がり者か豪商か新政府恭順の元大名かといったところです。

森村邸はTOTO、ノリタケカンパニー、森村学園の祖である森村 市左衛門邸。
岩崎邸は言わずとしれた三菱財閥。
原邸は実業家の原六朗 現在の御殿山トラストシティと原美術館
原美術館の建物は1938年に建てられたそうで、2021年に閉館予定なのだとか。一度行って見たいですね。
西村邸はリーガルコーポレーションの祖である西村勝三関係の邸宅だと思われ、
伊達邸は伊予宇和島藩の伊達家。
日比谷邸は日清紡、鐘紡の設立に関わった日比谷平左衛門。
益田邸は三井物産初代社長の益田孝。

と、このあたりは御殿山といって超絶のお金持ちしか住んでいません。

だいぶ品川神社から離れていますけれど、このあたり一体はそういった貴族階級の高級住宅地ですね。


関東大震災前 1917-28(大正6〜昭和3年)

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品川歩行新宿の賑わいが地図を通してもわかります。次回行く時は品川歩行新宿を歩いてみたいです。

京急は1898年創業。

そして埋め立てもだいぶ進んできたようです。

品川駅からの勾配は結構キツくて、普通に暮らすには結構大変かなと思います。
というか東海道本線が分断しているからまるっきり生活違うんでしょうね。
今の品川神社の前の道はこのときに工事中です。途中まで出来上がってます。


昭和戦前期 1928-1936(昭和3〜11年)

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だいぶ埋め立てが進みました。関東大震災以降、被災地から人口が移動したのでしょうけれど、そういう形跡もあまりなく、品川神社の前の道は完成しました。

空襲では神社あたりはあまり焼失していません。
アメリカ軍の空襲はかなりピンポイントで計画的だったので、意図的なものがあるのでしょう。御殿山付近は文字通り、御殿が多いので、戦後接収をしようとしていたのだろうと思います。

品川歩行新宿はほとんど焼失していないのが意外な感じがします。

高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)

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東京の古地図を順繰りに見ていくと、あるパターンが浮かんできます。

明治初期中期 新政府側の要人が大邸宅を構える。

大正期 世代交代で消える要人宅あり。

昭和初期 関東大震災の影響で人口移動。

高度成長期 空襲焼失地域の名残あり。

さらに江戸時代末期の地図を見ると面白いのが、明治初期からと比べてまるで違ってしまっているということ。

今まで住んでた幕府側の有力地権者が、まるっきり追い出されて新政府側の人間の土地になっているんですね。

この衝撃は凄まじいと思います。今までの社会構造がまるっきり変わっちゃうんだから。

そもそも明治になる前は日本語も統一されていなくて地方によっては意思疎通もむずかしかったので、いっそ英語にするかと森有礼は考えていたみたいだから。


例えば仮に山本太郎さんや須藤元気さんが総理大臣になったとしても、結局は明治政府が作った枠の中の出来事で、明治維新に比べると大した衝撃にはなりません。

ちなみに私は栃木県出身のせいか、明治維新に肩入れして夢中になるということはないです。煽りを喰った農民側という意識はあります。

バブル期 1984-1990(昭和59年〜平成2年)

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これでも30年前の昔になるんだけど、海はほとんど埋まりましたね。
岩崎邸は開東閣(かいとうかく)。ずっと「かんとうかく」だと思っていました。
外から木々に囲まれた高台で全然わからないんですよね。今でも三菱グループ関係者の倶楽部なんだとか。

品川神社自体はそれほど様変わりしてはいません。まさに聖域といった様相。

これもまた明治政府の神道国教科政策が幸いしているのだと思います。神社の南の品川小学校の東には池があったみたいですが、今は無くなっています。(今は区立品川学園)

アースダイバーに影響を受けて「岬の跡は聖域だ」とのことでやってましたが、結局のところ「運」と「後解釈」なんじゃないかと思いますね。


もし明治政府が廃仏毀釈という方針を取らなかったら?神社も都内に多くあったお寺のように、跡地にマンションが建ったりビルが建ったりしていたかもしれません。

回数も20回を超えましたし、明治期の大きな邸を見つけて「あ、また薩長か」というのもさすがに飽きました。

もう、そういうものだといい加減に受け入れて、そこから学べることは何かなと考えていきたいと思います。


例:長いものには巻かれておけ、人は流れに乗れば良い、トレンドに順張りせよ 等々


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