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13,【千代田区】人工の谷、お茶の水。政治とスポーツの接合点を発見。

(20 19年6月訪問)

東京時層地図・お茶の水駅周辺

この試みの良いところは見え方が変わる所。

いままで何気なく腰掛けてパンを食べていたような場所も、時代を少し遡ればまた違う景色がある。

今回は御茶ノ水近辺。

この辺りは見所満載で、どこに焦点をあわせるか。

神田明神
湯島聖堂
東京医科歯科大学
ニコライ堂

その他にも歴史的に重要と思われる所が沢山ある。

今の段階での知識はほとんどない。

御茶ノ水にある川は皇居の外堀だと思っていた程度の知識。(神田川だった)

神田明神はいずれ取り上げる予定の場所なので、また別の機会に。

千代田線の新御茶ノ水駅の地下のホームから画像キャプチャ。

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すこし引いた地形図を見ると
縄文時代はこの辺りは半島状だったことがわかる。


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アースダイバー 中沢新一はこういう所には縄文時代の遺跡、貝塚、埋葬地があって、のちに神聖な場所として後世祀られるようになったと主張している。

個人的にはこんなに海が入り組んでる場所に住むなんて、面倒じゃないかと思ったりもするが、現実に遺跡があるから住んでいたことには違いないのだろう。

縄文時代は農耕民ではない。採集狩猟(漁)民族なのだ。

そもそも農耕はまだ来ていない。海沿いのほうが便利そうだ。
神田明神は半島の東側の海岸線にあり、半島の先端は今の靖国通りあたり。

この赤丸で囲まれた部分には神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂、幸徳稲荷神社、太田姫稲荷神社などがある。

現在の神田神保町から神田須田町にかけての靖国通りは不自然にカーブしているので、そこが半島の先であることがわかる。

半島を分断する形で神田川が流れているのは不自然な点だ。

江戸時代初期、二代秀忠の頃に川の流れを変える工事されているからである。

この部分の神田川は人工的に作られた谷川なのだ。

江戸城との関係をみると、外堀の役割を果たしており、他にも隅田川まで川を引っ張ることによって、増水時に江戸城東側の水害を防ぐ目的もあったようだ。

この場所は結構急な谷であり、橋を架けることは技術的に難しく、明治以降にならないとかからない。


下は「大江戸今昔めぐり地図」というアプリの地図。

昌平坂学問所の管理者、林大学頭韑(あきら)は1859年没。その少し前に作られた地図が元になっているのだろう。

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文明開化時 1876-84(明治9~17年)

私がいるあたりは駿河台東紅梅町、西側が駿河台西紅梅町とある。

御茶ノ水の表記はない。

駅前の橋もない。字が潰れていて見にくいのが難点。

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神田川の北には

東京女子師範学校
東京師範学校
大成殿
図書館

川沿いは昌平坂。

昌平坂といえば、昌平坂学問所。

幕府直轄の学問所だ。儒教を教えていたようだ。

場所は大江戸今昔めぐり地図に記載されている。

この昌平というのは孔子のうまれた昌平郷からきている。

江戸時代の教育、武士の教育は儒教の影響を非常に強く受けていたという事がわかる。

孔子の言葉を編纂したと言われている「論語」には日本で今も使われてる言葉が結構ある。

例えば

15になると聞かされる「15にして学を志す」
30すぎると「30にしてたつ」
40すぎるとついつい言ってしまう「40にして迷わず」
50すぎるとさすがになんでも良くなる「50にして天命を知る」
圧の強い漫画によく出てくる「義をみてせざるは勇なきなり」
古きを訪ねて新しきを知る(原文ではそうすれば師になれると続く)という「温故知新」

江戸時代はこの昌平坂学問所で、初代の林羅山から明治維新までずっと林家が12代にわたって管理してきた。

まさに江戸時代の武士エリート養成所と言えるだろう。

明治維新後は西洋文化導入で学問所はなくなり、敷地の殆どが東京師範学校と東京女子師範学校になり、大成堂と一部を残すのみとなった。

東京師範学校は2019年放送の大河ドラマいだてんの「金栗四三」の出身校で、柔道の「嘉納治五郎」が長らく校長を務めていた。

このドラマにも出てくる寺島しのぶさん演じる「二階堂トクヨ」は隣にある東京女子師範学校出身で、日本女子体育の創設者として知られる。
東京女子師範学校はいまのお茶の水女子大の前身。

今更ながら気がついてしまったが、お茶の水女子大って駅で言うなら護国寺なのだ。

お茶の水にあったからそういう名前がついている。今まで知らなかった。


明治末期 1906-09(明治39~42年)
神田川に橋がかかる。

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御茶ノ水橋が登場。
正しくは「お茶の水橋」とのことでそのように千代田区ホームページにも書かれているが、110年前の地図は「御茶ノ水橋」と書かれている。

御茶ノ水橋には路面電車が走り、その様子は国会図書館デジタルコレクションにもあった

最新東京名所写真帖 明治42.3

説明文が秀逸なので引用。

往時は雪の朝た月の夕べの眺めに富む幽寂閑雅の勝地たりしが
漸次近傍の繁栄に伴い新たに本橋を架し交通亦極めて便宜の街と成れり
橋畔の小建物は甲武電気鉄道の停車場にして階段の下に設くる軌道は
昌平橋より新宿方面に達する電車及汽車の通路なり


110年ちょっとで街の変化は当然のことながら、言葉の違いも凄い。
説明書きは左側から描いてあって句読点もないので読みにくいが、声に出すとなんともよいリズム感がある。
これが明治後期の日本語なのである。

福元美和子氏「明治初期の日本語の一考察」によると

明治初期は様々なお国言葉と話し言葉と書き言葉が混在していて、民族言語としてひとまとめにすることは出来ず、寺子屋で漢字を習うだけで、日本語を教える学校もなく、識字率も人によって差があったため、コミュニケーションに難があった。

そこでいっそ日本語を廃止して英語にしようと、政府の要職にあった森有礼は書簡でイエール大学の言語学者ホイットニーに相談している。

結果的にはホイットニーが植民地でもないのに英語にしてどうすんのと返答し、森有礼は英語公用語計画を言わなくなる。

この時期は国語としての日本語はまだ存在せず、バラバラな日本語よりも英語の方がマシだと、海外生活の多かった森有礼は思ったようだ。
その後、上田万年らによって現代日本語が形作られていく。

明治初期の日本語にはそういった経緯がある。

最近ずっと一定的に言われ続けている正しい日本語、言葉の乱れってどういう事なのか。なにをどこから見て正しいのか。

明治末期から比べて正しいのか、それとも昭和初期なのか、そもそも正しいってなんなのか、目指す日本語は明治期なのか、大正期なのか、昭和期なのか、過去の日本語は正しくないといえるのか。

話戻して

甲武電気鉄道というのはのちの中央線だ。写真では花王石鹸の看板も確認できる。

この時代この場所は千代田区ではなく神田区そして駿河台西紅梅町。当時の一等地なのだ。

神田区駿河台東紅梅町に住みたい、憧れがあるという人はたくさんいただろう。

なにせ幽寂閑雅の勝地なのだから。

そんな妄想を現実化、夢を実現できるのはやはり大富豪だ。

当時の大富豪といえば岩崎。

岩崎といえば政商、岩崎弥太郎とその弟の弥之助。三菱グループ、日本郵船の祖である。

その岩崎財閥の東京進出の足がかりとして、岩崎邸ができた。そこがまさに神田区駿河台東紅梅町。

ここから岩崎、三菱財閥はさらに巨大に発展するのである。

岩崎弥太郎は政界への繋がりもつよく、娘婿が二人総理大臣になっている。

とは言っても50歳没だったので、弥太郎というよりも三菱財閥と政界の繋がりが強いという事になる。

谷沿いに太田姫神社という神社がある。

太田道灌の娘を祀ったもので、江戸時代前は江戸城内にあり、江戸時代にはここに移り、震災、戦災を経て、のちに道路拡張で半島の先端部分に移動している。

ニコライ教会堂は1891年竣工。

ロシア系のキリスト教会のようだ。

明治大学は1903年に改称し、明治大学と名乗り始めた。(それまでは明治法律学校)

関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)
高等師範学校の表記はなくなり、女子高等師範学校のみとなった。

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隣の明治末期からある、教育博物館とはなんぞや。これが現在の国立科学博物館の前身だというから驚きだ。

そして1923年9月の関東大震災により、資料と施設の全てを失う。

死者行方不明者10万5000人。当時の人口が370万人。


昭和戦前期 1928-1936(昭和3~11年)
女子高等師範学校跡には1930年に高歯医学校が移転し、付属の医院ができた。
現在の東京医科歯科大。

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聖橋は昭和2年に関東大震災復興として作られたようだ。
関東大震災によって湯島の大成殿も壊れてしまったため、昭和10年に建て直しとなった。
中央大学、日本大学の表記も見える。

高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)

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近年、レスリングやアマチュアボクシングの騒動で話題となっていた代々木にあるアマチュアスポーツの総本山、岸体育館は当時はここ駿河台にある。

岸体育館は岸清一の遺志によってたてられたもの。

岸清一は三菱財閥のお抱え弁護士にして、亡くなったスーパーマン嘉納治五郎の後を継いで体育協会の二代目。

その岸の遺志で岩崎邸跡地に体育館をたてるのだから、ここにも強い繋がりがあることがわかる。

体育協会と三菱。

三菱は明治期からスポーツ支援をやっていた庇護者なのだ。

身内で2人も総理大臣をだしたことから政府にも働きかけることが出来る。

スポーツを流行らせたいのであれば、財界と政界への太いパイプが不可欠。

そう考えるとスポーツ選手のお金持ち批判と政権与党批判はあまり聞いた事がないのはそのためか。

スポーツ選手出身の国会議員は比較的多い。

スポーツは政治と財界に食い込んだからこそ大きく発展した。切り離せばマイナースポーツになる。

スポーツを大きくしたければ、大衆にうったえるのではなく、まずは政治と財界なのだ。そこが根気よくやればいずれは根付く。

うーん 昔の地図を見てるだけでこんなに勉強になるんだな。


バブル期 1984-1990(昭和59年~平成2年)

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岸体育館は手狭という理由で、現在の代々木にうつされ、跡地には日立製作所が入った。
三菱と日立も合弁会社設立など繋がりが深い。

その日立製作所も2019年現在ではなくなり、高さ110メートルの複合施設、御茶ノ水ソラシティとなった。

その所有者は三菱系…と言いたいところだけれど、みずほ信託銀行なので、岩崎弥之助以来のこの地の三菱との繋がりは無くなったように見える。

今回はお茶の水近辺だったが、過去の地図から見えてくるものは非常に多かった。


昌平坂学問所、東京師範学校、女子師範学校、医科歯科大学、明大、中央大、日大、このあたりは学問の街といえる。 

お茶の水は古くから日本の将来の担い手育成の土地なのだ。

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