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【港区】秩父宮ラグビー場

ある日、秩父宮ラグビー場にいってまいりました。
小学校のご招待。おかげでサッカー、バスケ、野球、ラグビーなどに格安でいかせていただいています。親子の思い出が増えました。ありがとうございます。

応援チームはリコーブラックラムズ東京。
発足が1953年 昭和28年
長くの歴史があります。

子供の頃にテレビで流れていたラグビーの試合、神戸製鋼、トヨタ自動車などは覚えていますが、時は流れて名前も変わっているんですね。

ラグビーは圧倒的にストロングな人間がやるスポーツだというイメージがあります。
頭から突っ込んでぶち当たっていって、転んで起き上がってまた駆け出す・・・男の中の男の競技です。首のあまり良くない僕は観てるだけで首が痛くなります…

この時期まだ寒い時期だったのですが(コートを着ていました)
外国人選手の家族も大勢きていて、彼らは半そで半ズボン。
まだ歩けるに至っていない赤ちゃんも誇張抜きで小柄な小1ぐらいの大きさがありました。
まじかよウソだろって思いましたね。

自分の常識じゃ世の中測れないんだなぁ・・・

試合前の練習風景
試合前の練習風景
試合中 黒がリコーブラックラムズ、赤が静岡ブルーレヴズ 白熱の試合でした。
ストロングな男たちの集団です。

ラグビーはルールを知らなくても面白く、基本的にボールを中心にしてジリジリと自分の陣地を上げていく感じで、ハラハラドキドキといったところ。

たのしめましたし、娘も一生懸命応援していました。
また、売店で売っているフライドポテトが美味しくてビックリしました。
シーズン始まったらまた行きたいです。

さて今日はここから東京時層地図。

今回は地図の範囲を狭めすぎた感じがありますが、過去に絵画館もやっているのであまり広範囲にしなくてよいかなとおもいまして・・・


現在の地図


現代の地図で気になるところは・・・

変に感じる場所ないですか?

僕は外苑内の道路がサスマタみたいになっているのが気になります。
不自然なんですよね。

明治9~19年 1876~1886年

このあたり江戸明治の転換期で激変した場所であります。

○ 北には陸軍火薬庫 江戸時代の地図では御鉄砲場となっていました。

○ その南には荒木邸

この場所は江戸時代の地図には

御奏者番 日向飫肥藩(おびはん) 伊藤祐相 5万石

と書かれていました。

人事興信録(明治36年 1903年4月)であたってみると

荒木寛畝という画家が高名。

この人は東京美術学校教授で、幕末は土佐藩主山内容堂のお抱え絵師だったようで、可能性があるとすればこの人の邸宅かな。

○ 現在地南は

兒島

兒島邸は有名な裁判官の

児島惟謙 の邸宅だとおもわれます。

児島は1891年に起こったロシア皇太子ニコライ2世が大津で警察官に襲撃されるという大津事件で、犯人を大逆事件適応で死刑ではなく無期懲役にして、政府の圧に負けなかったということで知られています。

しかし、翌年は向島で花札に興じたという理由で賭博の容疑をかけられ、不起訴となりますが責任を取らされて大審院を辞任。

この事件をキッカケにニコライ2世の日本人に対する心証はわるくなり後の日露戦争(1904~05年)につながったとも言われています。

見方によって様々ですね。司法関係の人は政府に屈しなかったと鼻高々でしょうけれど、政府関係だったら他国に示しがつかないということになるでしょうし。結果的には戦争につながってしまった一因にもなっていますし。

大久保利通や岩倉具視を暗殺しようとした人達は斬刑になっている時代でこれは異例中の異例ということになるとおもいます。(大隈重信に爆弾を投げた犯人はその場で自殺、板垣退助を切りつけた犯人は板垣自身が助命嘆願書提出)

時代は少し下って1917年にロシア革命が起こってニコライ2世とその家族(有名なアナスタシアを含む)は亡くなってしまいます。
その映画を見た事あるけど悲しかったなぁ
題名はすっかり忘れています。

○ さらに南には

加地邸があります。

人事興信録(大正4年 1915年1月)

で青山に紀州徳川家家令として加地匡鄕 かじまさのり

という人物の名前が出てきました。

赤坂御用地は紀州徳川邸だったことから、距離的にも間違いないところだとおもいます。

明治19年にはこの一帯は青山練兵場になってしまうので、明治4年の廃藩置県後に旧勢力から新勢力に移り変わってこの地に住んだとしても、10数年。
データがすくなく、貴重な地図だと感じます。

明治39~42年 1906年~1909年

○ 明治19年 1886年に日比谷練兵場(現・日比谷公園)が移転して青山練兵場へ。

南に青原寺が存在していますが、こちらも明治44年に中野区に移転完了。
開祖は雲崗俊徳で、太田道灌の師であるとのこと。

さらに雲崗俊徳は芝にある青松寺の開祖であることから、多くの曹洞宗寺院にかかわっていたようです。


○ さらに南には江戸時代の地図には

山の手 六阿弥陀五番 梅窓院

こちらのお寺はいまでもあります(青山通りから一本入った場所なので気がつかなかったです)歴代の青山家のお墓とシーボルトのお墓があるようです。

関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年


○ 明治神宮外苑ができます。まんなかに道路通っていますよね。やっぱり公園じゃないんだからサスマタ型の道路じゃどう考えてもおかしいですよね。

○ 女子学習院ができています。学習院といえば目白駅にある学習院ですが、ここにも学習院があったのですね。

もともと四谷の華族女学校が永田町に移転し、それが学習院と合併して華族女学校が女子学習院となってこの地に移転。

目白の学習院と早稲田にある学習院女子って違う学校だということを初めて知りました。そして2026年には両校は統合するんだとか。

青山外苑前商店街のホームページにもありました。

学習院と聞いて毎回思い出すのが

真田信繁(幸村)の子孫という女性がいて、学習院に入ったら周りは大名の子孫ばかり(その方いわく幸村は大名ではないということ、要は華族出身じゃないということ。その方は僕より年下ですが、そんな最近でもそういうのがあるようです。)で物凄い引け目を感じてドロップアウトしたという話を毎回思い出してしまいます。

周りとの比較が自らの幸福度を下げてしまうんだなと感じました。これは本人だけでなく周りの人の影響も大。
子供が大きくなったら親の責任はないなんていいますが、大人になるまでの過程で拗らせちゃうとやっぱりそれは親の責任だから、やっぱり責任はついてまわっちゃうのかなと思ったり。


昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年 

○ 野球場といえば後楽園ですが、戦前の野球場といえば神宮外苑の野球場。

丁度このころ、昭和9年 1934年にベーブルース、ルーゲーリックなどのメジャーリーグのホームラン王が来日し、日米野球が神宮球場を皮切りに行われて、16戦全勝。
この時選手として参加していたモー・バーグはスパイで聖路加病院屋上で写真を撮っていた逸話も調べたことがありました。

日米野球は全国16か所を回っているのでスパイ活動には恰好の場所だったと思います。

モー・バーグについては2018年にThe Catcher Was a Spyという映画化され、なんと真田広之さんも出ているのですが日本未公開。

日本未公開になるのは題材的に気持ちいい内容じゃないですし、このメジャーリーグチームを招聘したのがメディアのドン、正力松太郎さんっていうところもメディア的に引っかかるところなのかな。

2003年のラストサムライ以降の真田広之さん出演海外映画20本くらいの中で日本未公開なのはこの映画だけなので、いろいろな事情を察するべきというところでしょうか。

まあ単に売れそうにないという話かもしれませんが。

それにしても100年経って大谷翔平がメジャーリーグのホームラン王になってしまうとは、幻想でも見ているのかもしれません。


高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年

○ 野球場のほうは米軍に接収され、米軍専用野球場になりますが、この時期は使えているようにみえます。

○ 東京大空襲で焼失した女子学習院跡に昭和22年 1947年にラグビー場建設。

ラグビー場建設に尽力をつくした昭和天皇の弟、秩父宮の名前を冠して
1953年に秩父宮ラグビー場に名称変更。

○ 相撲場は1926年開場で、戦後の1947年には大相撲の本場所もおこなわれたようです。
6月場所と11月場所
優勝は羽黒山政司 優勝旗手は力道山光浩 
羽黒山は昭和の大横綱、双葉山と同部屋。
のちに横綱になる北尾光司は、しこ名を双羽黒 双葉山と羽黒山からとったとのこと。

双葉山と羽黒山の手形 両国駅


バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年 

相撲場は1961年に神宮第二野球場になります。
2019年に閉場。解体予定。

解体された跡地に完全密閉型屋根付き収容人数2万人の新秩父宮ラグビー場を建設する予定。

秩父宮ラグビー場と伊藤忠商事の本社を解体して新神宮球場を建設する予定だそうです。

で、この計画で明治神宮外苑がつくられた100年前に全国から集められた献木を切り倒すのかという事と、100年近くの歴史がある神宮球場をレガシーと呪文のように言っておきながら、壊して新しいものに作り替えるのかということが問題になっていますね。

今後どうなるのでしょうね。

地図からみると日本の本質は壊して作って壊して作ってだとは思いますけれど・・・・。

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