【渋谷区】表参道裏の大山邸 陸軍大将大山巌は恋愛成就、夫婦円満の象徴!?
表参道。
普段は人で賑わう表参道ですが、一歩裏通りに入ると静かな場所もあります。
こちらには陸軍大将である大山巌邸がありました。
大山巌は薩摩軍人で陸軍大将。(1842~1916年)
戊辰戦争では会津の鶴ヶ城を攻め、そのさいに銃撃をうけて右股を銃弾が貫通し搬送。この時撃ったのは後の同志社大学の創始者新島襄の奥さんになる八重だといわれています。
鶴ヶ城内には大山巌の後妻となる山川捨松とその家族が籠城していました。
大山巌は明治になってからは西南戦争で軍の司令官として従兄弟の西郷隆盛と戦います。これを気にして大山巌は生涯鹿児島に帰る事はなかったとか。
大山巌のお墓は栃木県那須塩原にありますが、そういう理由もあったのでしょう。
大山巌の銅像は田安門近辺にあります。高い台座に馬にまたがり、薩摩の大将大山巌ここにありと言わんばかりのいかめしい印象です
余談ですが
同じ薩摩出身の「警察の父」川路利良は戊辰戦争で流れ弾が股間に当たって負傷。川路は西南戦争で警視隊として西郷軍と戦うことになったので鹿児島では人気がないようです。おそらく大山巌もあまり人気はないと思われます。
川路は明治初期の渡欧の際に、列車の中でお腹が痛くなって、新聞紙の上に●●を出してそれを列車から投げ捨てたところ、運悪く人にあたり、「日本人が●●を投げ捨てた」と新聞沙汰になったとのこと。
この話はお腹の弱い僕にも身につまされますね。この時、エビオスとか強力わかもとがあれば腹痛は防げたかもしれません。(エビオスが発売されたのは昭和5年になってから)いやでも無理(いま食べ過ぎて腹痛中)
話をもどしまして
表参道の裏手の旧大山巌邸跡には案内板が建っています。
案内板は大山巌の住居跡としてではなく、その息子、大山柏(かしわ)の業績をたたえるものでした。
とのこと。
大山巌が亡くなったのは大正5年、母捨松がスペイン風邪で亡くなったのが大正8年。留学に行ったのは12年。
父母の死後に自由に動けたという側面もあると思いますが、この母 捨松がなんとも凄い。
捨松は会津藩出身で戊辰戦争後に官費海外留学。この時、後の津田塾大学の創始者、津田梅や音楽の第一人者瓜生繁子らと海外で11年暮らし、留学生活が長く帰国時にはほとんど日本語能力が失われていたといいます。
大山巌との出会いの際には、薩摩訛りと片言の会津言葉で、日本語がお互いに通じず、(このあたり森有礼が日本国内で通じない日本語を英語化しようと考えていたのと一致します。)
西洋かぶれで語学が堪能だった大山と、海外生活の長かった捨松がフランス語で話始めると途端に話が弾んであれよあれよと交際にいたりますが、当時の薩摩と会津で敵味方なので周囲は大反対。
しかし、押し切って恋愛結婚。しかも結婚後も大変に仲がよかった(Wikipedia)ということです。
この当時の権力者は二号三号さん当たり前でこんな逸話はなかなか聞いたことがない。恋愛成就、夫婦円満の見本ともいえるのではないでしょうか。
大山夫妻の墓は栃木県の那須にあり、那須は観光名所として推したいようです。住居のあった渋谷区と銅像のある千代田区も縁結びと夫婦円満の象徴としてちょっとした人気スポットになれると思います。
僕はこれを機会に大山巌像に夫婦円満を祈りたいです。
経緯を知らない人からみたら、まさか夫婦円満を祈っているとは思われないと思います。
捨松は日本最初の女性留学生、大学卒業して学位を得た最初の女性。
当時の最先端の人がお母さんですから、息子大山柏が軍をやめて考古学、史前史の道に進んだのも、心の奥底では日本神話への反発心があったのだろうと想像できます。
やっぱり史学に対する圧力のことは触れられています。
サラッと書いてありますが、貴族院議員54歳で出征というのは大山柏ただ一人のようです。
ここで遅まきながら、神話をよりどころにする神社と原始社会の遺跡発掘って相反するものなんだと初めて気が付きました。
そう考えると渋谷区代々木八幡境内にある縄文遺跡やその出土品というのはインパクトがありますね。あっ!あれも渋谷区教育委員会が案内板立てていたような?
複雑なんだなー世の中単純じゃないんですね。今更ながら。
奇しくもこの日は遺跡発掘っぽい恰好。
では本題の東京時層地図へ。
明治初期
畑です。大江戸今昔巡りをみると、明治維新までは下野足利藩(栃木)戸田忠文、子供の忠行の領地となっていたようです。
大山巌夫妻の墓所は栃木県にあります。なんとなく縁を感じますね。僕も栃木県出身なので勝手に縁を感じます。(各々住所は全然違う)
明治後期
当時は表参道も存在していないです。長岡邸、浅野邸のあたりに細長い池のようなものも見えます。渋谷川(キャットストリート)の水源だったのでしょうか。
1883年明治16年 巌は捨松と結婚。
語学堪能な捨松は社交界で大活躍、大山家の資産運用にも力をいれ、大山巌いわく「知らないうちに広い邸宅を手に入れている」と驚いたという逸話もあります。(Wikipedia)
すごい洋館です。右側に道と奥に建物が見えるので、玄関のある南側から撮ったものでしょう
こちらは1900年 明治33年の大山邸
位置的に西側から撮られたものかな。
屋根が急こう配なところあたり北欧っぽいです。
コンドル建築かなとおもいましたが、違うようでした。(コンドル建築は屋根が浅く天井が高く、時折ドームがあるイメージ)
大正時代関東大震災前
大正5年大山巌 大正8年大山捨松 死去
後継ぎの柏、大正12年1月 ドイツ留学(34歳)
9月関東大震災で大山邸焼失
帰国後柏は那須の別荘で炭を焼いて近隣に配ったそうです(Wikipedia)
チエック公使館というのはどこだろう?たぶんチェコスロバキアだと思います。
昭和初期戦前(昭和5年頃)
ちょうどこのころの地図ですね。
さらに
50過ぎて招集されて、貴族院議員という立場なのに、ソ連との前線にいってしかも、軍事物資が不足していたため自家の財産で負担。さらには空襲で自宅も研究資料も焼失、さらには戦後の農地解放と公職追放で財産のほとんどを没収。
ふり幅がかなりキツイですね。
しかし、こういう人の人生こそ、生きるヒントが隠されていると思います。
その後は那須塩原にて暮し、戊辰戦争の研究に没頭したとのこと。戊辰戦争が父と母のある種の出会いの場だったことを考えると、思いは人一倍でしょう。
1950年代高度成長期前
資産を没収された大山邸ですが、庭の一部に横長の住宅が建っています。
ここに行ってみると2棟の都営アパートっぽいものがありました。
現在は日本郵政省の宿舎のようです。1960年代の風合いがあります。
家賃は安いでしょうね。空いている土地も沢山ある。
裏手には最低家賃70万円~の高級低層マンションが控えます。
このコントラストがまたスゴイ。
たまに発見する高度成長期の残り香にシビれる所でもあります。
バブル期
大山邸あたりには細かい一戸建てが8棟ほど
北側には天理教の教会ができています。天理教の場所についてはチェコ公使館あたりなので大山邸かは微妙なところです。
現在では細かい一戸建ての部分は高級マンションが出来ていますが、郵政宿舎の空き地が広いので往時の大山邸の敷地の広さを体感することはできます。
今回は、気軽な感じで大山巌邸跡にいってみましたが、現地にあった息子柏の案内板、そして調べたところによる大山夫妻の意外ななれそめ、息子柏の激動の人生を見ることができました。
敵味方だった大山巌と捨松の恋は成就、結婚生活もおおむね幸福だったということで、明治版ロミオとジュリエットのハッピーエンドパターン。
恋愛成就、夫婦生活円満の象徴として銅像を見るというのもありなのではと感じました。
^^^追記^^^
2022.9.11
恵比寿ガーデンプレイスで行われた栃木県フェスに行って、那須のブースで
「大山巌の墓ってありますか」
そんなの聞いたことないですね。
「えっ!陸軍大将の大山さんですよ」
那須にはないです
という意外な返答。
帰って調べてみたら西那須かー隣町じゃわからないか
しかもいきなり大山巌とか言い出したから変な人かと思われちゃったかも・・・
真岡市出身ですということから言えばよかったかな・・・
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